アバルト用語辞典 登場頻度の高い専門用語をわかりやすく解説(A〜M編)

Abarth Scorpion Magazineや自動車専門媒体に度々登場する専門用語の意味がわかるように、頻出する用語を噛み砕いて解説。なお用語はアバルト好きの視点で紹介しているので、ブランドの理解を深める参考にしていただければ幸いだ。まずはA〜Mで始まる用語をピックアップ。

<A>

カルロ・アバルトが1949年に設立した自動車メーカー。設立当初はレースに参戦するためのチーム運営、マシン製作やメンテナンスなどからスタートし、次第にそのノウハウを投入した市販車用チューニングパーツやコンプリートカー、オリジナルスポーツカーの製造開発までを手掛けるようになった。1971年からはフィアットグループに属し、フィアットの競技部門兼高性能モデル開発部隊として様々な名車を生み出した。現在はStellantisグループの一員としてフィアットをベースとしたハイパフォーマンスモデルを展開するブランドとして活動している。

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大衆向けに作られた一般的な乗用車でもアバルトがチューンアップすると性能が飛躍的に向上することから、ファンの間では賞賛の意味を込めて、その卓越したチューニングを“アバルトマジック”と呼ぶことがある。一例をあげるなら、1957年デビューのフィアット 500は最高出力が18psだったが、アバルトが速度記録に挑戦するために手掛けたチューンアップ版ではベース車の5割増しにあたる27psへとパワーアップ。最高速度も95km/hから120km/hにまで向上した。まさにマジックである。

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<B>

イタリア語で、Bi=2、albero=カムシャフトを表す。つまり2本のカムシャフトを持つDOHCエンジンのこと。吸気側と排気側のそれぞれに特化したカムシャフトを持たせることで吸排気の効率を高められ、燃焼室の設計の自由度も高いことから、エンジンの高性能化を実現しやすい。アバルトはビアルベーロ・エンジンを1957年に誕生させ、後に「フィアット アバルト 1000 ビアルベーロ」で市販モデルに展開した。

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イタリア語でクーペの意味。もともとはボディ形状を意味する用語だが、初期の頃には「アバルト 205A ベルリネッタ」などのように、車名にベルリネッタを用いることもあった。なお、黎明期にアバルトが作り上げたスポーツカーはクーペボディのものが多かった。

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ベルトーネは、イタリアのトリノを拠点に活動するカロッツェリア。1912年創業という長い歴史を持ち、1970年代には数々のスーパーカーを手掛けたことで世界的に知名度を高めた。数々の著名デザイナーを輩出してきたことでも知られ、そのうちのひとりであるフランコ・スカリオーネは、ベルトーネ在籍中に未来的なデザインをまとった秀作「1500 ビポスト ベルトーネ」を手掛けた。

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イタリア語では、Bi=2、posto=座席の意味。つまり2シーターのこと。アバルトでは1952年にショーカーとして作られた1500 Biposto Bertone(ビポスト ベルトーネ)、1970年に純レーシングマシンとして製作された1000 Biposto Corsa(ビポスト コルサ)、2014年にアバルト 500系の走りの純度を飛躍的に高めた特別なモデル、695 Biposto(ビポスト)など、いくつかの2シーターモデルの車名に採り入れられている。

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<C>

アバルト&C.の創設者であり、伝説的なチューナーでもある。1908年、オーストリア生まれ。オーストリア時代はカール・アバルトだったが、1939年にイタリアへ移住してからはカルロ・アバルトを名乗った。若かりし頃はオートバイとサイドカーのレーサーとして世界的に活躍したが、その頃からエンジニアリングに対する造詣も深かった。1946年からはクルマの世界に入り、2輪時代からのノウハウを活かし、レーシングカーのコンストラクター、チューナーとしてのアバルト&C.を牽引した。1979年没。

イタリア語でcorsoは大通りを意味し、コルソ・マルケ 38は、マルケ通り38番地という意。トリノ市内にあるこの番地は、アバルトが1958年に大規模工場を建てて以来、ずっと本拠地としてきた場所。数々の名車や伝説を生み出してきた特別なエリアだ。現在、アバルトのヘッドクォーターは同じトリノ市内のミラフィオーリ工場内に置かれ、クルマの企画・開発はそこで行われている。

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もともとは馬車工房を意味するイタリア語。転じて、現在ではクルマの車体のデザインや製造を生業とする工房、もしくは企業を表す言葉として使われている。自動車メーカーや時として個人などクライアントから依頼を受け、デザインや製造、架装を手掛ける。かつてのアバルトはクルマの性質に合わせていくつかの個性豊かなカロッツェリアを使い分けていた。

イタリア語では、coda=尾、tronca=切り落とされたもの。クーペの車体の最後端をスパッと切り落とした形状のことを意味している。車体の空気抵抗を少なくすることを狙った手法のひとつであり、車体の全長を短くすることによる軽量化と運動性能の向上も期待できることから、レーシングカーに採り入れられることも多かった。アバルト シムカ 1600(1964年以降の後期型)などもコーダトロンカを採用したモデルのひとつだ。


アバルト シムカ 1300。

その名のとおり、美しさや優雅さ、洗練さに基づいてクルマを審査する競技会のこと。古くは富裕層がカロッツェリアにオーダーで作らせたクルマが集まり、美しさを競うコンクールとして行われていたが、現在はクラシックカーのコンディションやオリジナル度の高さ、車両のヒストリーなどが審査対象となるコンクールとして行われることが多い。西洋の伝統的な自動車文化を反映したもので、欧米では権威ある大会が毎年いくつか開催され、自動車見本市としての役割も担っている。

1946年にトリノの実業家ピエロ・ドゥージオが創業した、イタリアのレーシングカーコンストラクター兼スポーツカーメーカー。アバルトの創業者であるカルロ・アバルトは、同年からチシタリアに在籍し、グランプリカーやスポーツカーの開発に従事していた。その縁でチシタリアのレーシングドライバーだったグイード・スカリアーニの裕福な父親の資金的な支援を得ることになり、アバルト&C.を設立した。


カルロ・アバルトがアバルト&C.を立ち上げる前に在籍していた、チシタリア社の「202 クーペ」。デザインはピニンファリーナが手掛けた。

<D>

直訳するとアヒルの尾だが、クルマの世界では、ボディのテールエンドに向かってすぼまりながら最後にテールエンドがスッと上向きに立ち上がる空力的なボディ形状のことを表す言葉として使われる。その形状をアヒルの尾に見立てたのだ。空気の流れを利用して、高速走行時にリアを路面に押し付け、安定性と駆動力を高めようとする考え方である。1963年以降のアバルト シムカや1000 ビアルベーロなどに、その形状を見ることができる。

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エンジンフードの後端が立ち上がったデザインを通称ダックテールと呼ぶ。

アバルトが後に750GTの主力となるザガート製のベルリネッタの量産化を進める段階で、空力を追求するために低くしつらえられたルーフが大柄なドライバーにとってのヘッドルーム不足につながることが判明。それを避けるため、ルーフの左右に大きなコブを設けて逃げを作った。そのルーフの形状をダブルバブルといい、それ以降のアバルト製スポーツカーのひとつのアイデンティティともなった。

<E>

esseesse(エッセエッセ)は、SSのイタリア語読み。そしてSSはSuper Sportの略。アバルトは、1963年に登場した初代595や1964年にデビューした初代695の時代から、さらにパフォーマンスを高めた強力版を用意していた。それがesseesseである。また現行アバルトの初期の頃からしばらくは、パフォーマンス系パーツの組み合わせで構成されるesseesseキットがオプションで用意されていたほか、通常のモデルよりスポーツ性を高めた仕様の595 esseesseや695 esseesseといった限定車も用意された。


フィアット アバルト 695 SS。

KONIが開発して特許を持つ、独自の仕組みで構成されたショックアブソーバーのこと。ショックアブソーバー内部にあるFSDバルブの働きで、電子制御に頼らず減衰力(サスペンションの伸縮を抑える力)を自動調整して、常に最適な乗り味をする発揮する。アバルトではF595、595 Turismo、595C Turismoのリア、そして595 Competizioneのフロントとリアに標準で備わっている。

1950年代から1960年代にかけて、自動車史に残る数々のクルマたちを手掛けたイタリアのカーデザイナー。大学で航空機学を学んだこともあり、空力へのアプローチの強さが垣間見える造形が特徴的だ。後年になって作品を風洞実験で検証したところ、驚くべき空力性能を発揮していることが実証されたというエピソードも残っている。1952年から1959年まではベルトーネに在籍し、その時代にアバルト 1500 ビポスト ベルトーネとポルシェ 356B カレラ アバルト GTLをデザインした。

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アバルト1500 ビポスト ベルトーネ。

<G>

1915年にトリノで創立されたイタリアのカロッツェリア。初期の頃はレーシングカーのアルミ製ボディを製造したりもしていたが、第2次大戦の後は派手さよりもエレガンスを重んじたデザインが仕事の主流を占めていた。アバルトとして歴代3作目となる作品の企画段階で、カルロ・アバルトがデザインを依頼したのがギアだった。そして完成したのが、1953年のアバルト 1100 スポルト ギアである。

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アバルト 1100 スポルト ギア。

主として1950年代から1970年代にかけて活躍した、トリノ出身のイタリア人カーデザイナー。1949年に独立して自身のスタジオを立ち上げてから、様々なカロッツェリアからの依頼を受けてクルマをデザインした。そのうちの1台が、アバルトのためにギアが製作した1953年の1100 スポルト ギアだったといわれている。

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アバルト 1100 スポルト ギアのリアビュー。

クルマのみならず様々な工業製品のデザインを手掛けてきた北イタリア出身のデザイナー。フィアット500の生みの親、ダンテ・ジアコーザに才能を見出され、フィアットのデザインセンターで修行を積み、以来、ベルトーネギアなどのカロッツェリアを経由して、1968年に自らのスタジオ、イタルデザインを設立する。手掛けた作品の多さとクオリティの高さから、イタリア自動車デザイン界の巨匠と呼ばれている。アバルトでは市販こそされなかったものの、高性能GTカーとしてアバルト 1600GT イタルデザインを完成させた。

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アバルト 1600GT イタルデザイン。

<H>

一般的には公認、承認、認証などを意味するが、クルマの世界では主としてモータースポーツに使用できる車両の承認をFIA(国際自動車連盟)が行うことを示す。競技を走らせようとする車両が競技そのものの車両規則に合致し、定められた安全基準を満たしているかどうかで承認の可否が決まる。よく耳にする“ホモロゲーションを取得した”というのは、レースへ参戦できるクルマであることが認められたということ。

<I>

ジョルジェット・ジウジアーロが1968年に興したデザインスタジオ。自動車部門のイタルデザインと鉄道やカメラなどの分野を受け持つジウジアーロデザインの両部門が存在していた。1969年にアバルト 1600GT イタルデザインを発表。市販には至らなかったものの、70年代にカーデザインのトレンドとなる要素をいち早く取り入れ、後に再び脚光を集めることになる。なお、昨今ではグランデプントのデザインを手掛けたのもイタルデザインである。

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アバルト 1600GT イタルデザイン。

<M>

marmittaはイタリア語の排気管に相当する言葉。つまりアバルト製のエキゾーストシステムのこと。創業時のアバルト&C.はレースに注力しており、参戦のために莫大な予算を必要としていた。その解決策としてカルロ・アバルトが手掛けたのは、量産車用のチューニングパーツ。その主力商品が世界の様々なクルマ向けに用意したマルミッタ・アバルトだった。簡単にパワーアップが図れるうえにスポーティなサウンドを奏でることから、世界中のクルマ好きから大きな支持を集めるヒット商品となり、アバルトの経営を安定させた。

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Mirafioriはmirare(見る)とfiori(花)の組み合わせで、“花を観賞する”という意味を持つ。トリノ市の南西にあるミラフィオーリはかつてフィアットグループの本社があったところで、現在も旧FCAグループの工場や開発部門、クラシックカー部門などが広大な敷地の中に集中している。またステランティスのイタリア系全ブランドのショールームが並ぶエリアやアウトレット商品もある公式グッズのスーベニアショップ、トラットリア&カフェも併設されている。

1927年から1957年にかけてイタリアを舞台に行われてきた、公道を使ったレース。その名称はmille=1000、miglia=マイル、つまり1000マイル=1600kmを走ることから来ている。アバルトもこのレースに積極的にエントリーし、数々の栄冠を手にしてきた。現在はクラシックカーのタイムラリーとして毎年開催されていて、世界各国から数多くの参加者を集めている。

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1957年のミッレミリアにエントリーしたフィアット アバルト750ゴッチア ヴィニャーレ。

イタリアではアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァが正式名称。ミラノ北部15kmほどのところに位置する都市モンツァにあるレーシングコース。1922年に完成した世界で3番目に古いサーキットで、歴代アバルトもこのサーキットを舞台に幾度と戦い、速度記録にも挑戦した。エキゾーストシステムのレコードモンツァの名称も、この地にちなんだもの。F1イタリアGPが行われることでも知られており、現在のグランプリコースは5750mの超高速コースである。