「ポップス・ヴァイオリン」という表現世界を開拓。 そして、バトンを繋げる。それが使命。

クラシック界の風雲児と呼ばれ活躍を続ける、ヴァイオリニストのNAOTOさん。既成概念を打ち破り、通称“Poper”(ポッパー)として、自由でアクティヴな独自の演奏スタイルを確立。弾けるような楽しさと喜び、時に沁み入る感動を伝え続けています。ヴァイオリン少年が辿ってきた年月と、その弛まぬ挑戦とは。

NAOTOさんがヴァイオリニストを志ざした、きっかけを教えてください。

母親が音楽大学の声楽科の出身で、家の中にはクラシックやオペラが流れている環境にいました。3歳の頃に、母の友人のお子さんたちが出るヴァイオリンの発表会に連れて行かれたんです。ところが、当時の僕は音に惹かれたわけではなくて、その子たちが持っていた楽器のケースに目がいった。カッコよく見えて「あれが欲しい!」とねだったんです。楽器ではなくてケース(笑)。うちは父親がサラリーマンですし、母も「公務員になりなさい」と言っていたくらいで、音楽家を目指す環境ではなかったのですが、祖母にヴァイオリンを買ってもらったことでレッスンをせざるをえなくなりました。いざ始めてみたら一転、母はものすごく厳しかったです。

その頃のレッスン時間は、どのくらいでしたか?

学校、食事、トイレ、お風呂、寝る以外は、ずっとヴァイオリンを弾いていた記憶があります。小学生の頃、学校の校庭でサッカーをしていると「ナオトくん、すぐ帰りましょう」と校内放送が流れるんです。家が高台にあったので、母が校庭を眺めていて。コントみたいでしょう(笑)。最初に指導してくださったのは、当時あった放送局のオーケストラのコンサートマスターだったご高齢の先生でした。とても優しい音を出される菩薩様みたいに穏やかな方で、お陰で母の厳しさが中和されていたというか。その先生だったから、ヴァイオリンを続けられたのだと思います。
でも、いま思えば母のお陰ですね。よく寝食を忘れて没頭するといいますけど、何かに真剣に取り組むというのはそういうこと。母はよく「10年、ひとつのことを一生懸命にやれば、ものになる。やめたいと思うなら、10年本気でやってからやめなさい」と言っていました。これは真実だと思います。

その後、高校時代に大阪から上京して、東京藝術大学附属音楽高校に進学しましたが、すでにプロになる覚悟ができていたのでしょうか。

いや、実は中学校3年生の時に、人生初の大きい挫折を味わったんです。それで東京に。全日本学生コンクールの西日本大会に出たのですが、僕は完全に勝てる、1位をとると思い込んでいた。それが結果は2位。あ、やらかした、と思いました。すごいショックで。敵なしと調子に乗っていたんですね。神様は、やはりちゃんと試練を与えてくれるものなのでしょう。
母も大変なショックを受けていたので、毎日、顔を合わせていたらこれはキツイだろう、離れようと考えたんです。東京の学校を探してみたら国立の高校があった。うちは私立に行くほどの余裕がないと知っていたし、見つけた!と。願書の締め切りギリギリのことでした。

大きな転換点となったわけですね。その後は順調に?

いえいえ、高校に入学してすぐまた鼻をへし折られました。1学年が38人でヴァイオリン科は10人でしたが、みんな、当たり前にプロになろうという人たちで、すごくレベルが高い。あれを目の当たりにすると、謙遜でも何でもなく僕には才能がないと思いました。言ってみれば天然ものと、養殖ものとの違いみたいな。僕は養殖もので・・・。でも、養殖ものには養殖もののよさがあって。その中でも、美味しいものがあると考えられるようになったのは、ここ10年ぐらいのことです。ですから、いろんなことに葛藤していた時期でしたね。
親に学費は出してもらっていましたが、CDを買うのも高かったので、いろいろとアルバイトもしていました。新聞配達やピザの配達、ウエイターをやったり。時給は800円から1000円ぐらいだったかな。雨の日の配達は50円アップされるからうれしかったですよ。ひとり暮らしだったから、お弁当も自分で作って学校に持って行きました。

そうでしたか。でも演奏のみの生活ではなくて、市井の感覚を知ることができたのは素晴らしいことなのでは。

ある意味、そうかもしれません。この頃、大きな衝撃を受けたことがあります。まず、高校・大学の先輩であるG-クレフさん、そして翌年、子供の頃から仲良くしてくれていたヴァイオリンの先輩である葉加瀬太郎さん(クライズラー&カンパニー)が紅白歌合戦に出たんです。その時、ヴァイオリンでクラシック以外の曲を弾くということを初めて知りました。その頃、大学1年のときに、仲間からバンドに誘われたことが、僕のいまの活動につながっています。

急激にポップス・サイドに移行していかれたのは、何故でしょう。

子供の頃、1日に1時間だけテレビを観ることが許されて、歌謡番組を観るのが唯一の楽しみでした。沢田研二さんや玉置浩二さん(安全地帯)、そしてTM Networkが大好きで。そういう歌謡曲やポップスが好きな面がもともとあったのでしょう。ポップスやロック、ジャズ、ダンス・ミュージックなどの面白さって、オーディエンスの反応の速さだと思っています。クラシックは総合芸術ですから、しきたりというか、楽章が終わってから拍手がくる。もちろん、それはそれで素晴らしいのですが、ポップスなどはまさにライヴ。ミュージシャンとファンとが全身でエネルギーを交わし合う。会場内でパワーが爆発し合うみたいな。音楽って、そういうものなんじゃないかと感じたのです。

その後、クラシックではなくポップスの世界に進もうとスタジオ・ミュージシャンも始められたんですか。

学校の授業の「初見」(楽譜を見て、すぐ弾けること)の成績がよかったこともあって、スタジオ・ミュージシャンの仕事に声をかけてもらったんです。しかし、ここでも鼻っ柱を強烈に折られましたね(笑)。さまざまな年代の方たちがいて、なかには70代の方も。とにかく、みなさんプロ中のプロで。メジャーリーガーの中に、ひとり高校球児が入れられたみたいな状態だったんです(笑)。学校にいたほうがラクなくらいで、毎日、剣山の上を歩いているようにつらかったですね。仕事人として、かなり鍛えられました。

でも、その頃すでにデビューの話もあったようですが。

はい、18歳と20歳の頃に。バンドでは自分の曲も書いていましたから。でも、それは自分のやりたい形態ではなく、不本意なものだったので断りました。その後、30歳過ぎて再びデビューの話があって、それは制作に納得がいくものだったのでOKしてデビューにつながりました。僕は、自分の音楽を他者によっていじられるのがいちばんイヤなんです。自分がこの人だったら預けてもいいと思えるプロデューサーならいいのですが、違う場合もある。結局のところ、自分の音楽は自分がいちばん大事にしているものであって、僕自身のアイデンティティに関わってくる問題ですから。

クリエイターとしての、こだわりでしょうか。

そうですね。自分も自分の作品も商品ですから、世の中に不良品を出すわけにはいきません。それは、制作者としていちばんしてはいけないこと。高級料理だろうが、B級グルメだろうが、カテゴリーは違っても中身はちゃんとしていなければいけません。僕自身、人間としてはダメな面もたくさんありますが、音楽家としては常に襟を糺していたいです。

これまでに、いちばん印象的な出来事は何ですか。

山ほどありますけど、強いていえばチャカ・カーンと共演できたこと。AIさんの音楽監督をした縁なのですが、高校生の僕に『おまえ、未来でチャカ・カーンにハグしてもらえるぞ』と、伝えてあげたいですね(笑)。
それから、僕がソロデビューした時に開催したライヴハウス“大阪なんばハッチ”での光景。チケットが完売した会場での、あの景色は一生忘れられない。僕の原点中の原点ですし、その後の原動力になっています。

東日本大震災のあった年から、福島県・須賀川市の小学校や中学校でライヴをされていますが、社会貢献という意識もありますか。

社会貢献というよりも、ある方から小学校が倒壊して子供たちの学びの場所がない、当たり前だった景色が一変してしまった子供たちがいると聞いて、僕にできることはないかと。あの時、ミュージシャンなんて何の助けにもならない、無力な職業だとひしひしと感じていました。でも、もしも僕の音楽が聴きたいと言ってくれる人がいるのなら、すぐにでも行こうと。「何かわからんけど金髪の人が来て、今日、楽しかったね」、そう思ってもらえるなら。そこから始めました。
あれから、以前よりももっと、弾く時に魂を込めよう、一瞬一瞬を大切に生きようと思うようになりました。

話は変わりますが、実際にアバルトに乗られた感想をお聞かせください。

あれはもう、超大人のためのおもちゃですよ。僕がドライブした『595 コンペティツィオーネ』は、とにかくシフトチェンジが楽しくて。パドルシフトで、5速から3速にシフトダウンしたときの音も、アクセルを踏み込んだときの音も最高で痺れました。タイヤが地面を噛み締めて走るというイメージを、強烈に感じましたね。いい意味で、若い頃に魅了されたクルマ本来の躍動感を感じられる1台だと思います。
また『595 コンペティツィオーネ』に乗った瞬間、アバルトが愛される理由がわかった気がしました。このクルマは完成されている。コンセプトとして、ドライバーを喜ばせる方向がちゃんとわかっているんだなと。そういった意味でも、アバルトはアーティストだと思います。本当に最高、とても楽しいクルマです。

ずばりNAOTOさんにとって、挑戦とは?

絶対に止まらないということ。常に、前に進み続けることですね。

これから先、挑戦したいことは何ですか。

大きく言えば、2つあります。
ひとつは年齢を重ねて行くことで、できないこと、できなくなってくることを増やさないということ。フィジカル面、精神面ともクオリティを落とさないために、自身に厳しく1000本ノックを続けていくしかないと思っています。
もうひとつは、僕の命題ともいえます。僕は、この30年間ほど“ポップス・ヴァイオリン”について考え、演奏し続けてきました。ヴァイオリンって、クラシックのものだけではないですよと。もちろん、王道としてのクラシックはあっていいのですが、僕はそこをベースにして、もっと自由で闊達な音楽表現を求めて開拓してきました。僕自身、その自負はあります。この土壌をさらに広げていくために、今年から後進の指導を始めました。弟子たちということではなく、ビジネスとして成立させていく技術、方式、法則をロジカルに伝えたいのです。たとえば、先陣の日本人メジャーリーガーがいたからこそ、大谷翔平選手がメジャーリーグで活躍している。そして、何十億円も報酬を得ている。夢がありますよね。それに近い感覚です。伝えていかないかぎり、いずれ僕らが逝ってしまったら、これまで音楽界で築いてきたものが途絶えてしまう。種をまいて育てた苗を、枯らすことは絶対にしたくないのです。

伝承していくということですね。

そうですね。僕がメインで弾いているのは、ストラディヴァリウスの孫弟子が作ったヴァイオリンなのですが、僕のところに来るまでに、何人もの演奏者がこのヴァイオリンを弾いてきた。とにかく、長い歴史を経てきているんです。そして、このあと僕の手を離れても、誰かがこのヴァイオリンを手にする。銘器の寿命は、僕らよりはるかに長いですからね。それと同じことなんです。ポップス・ヴァイオリンというジャンルの、バトンを後世に繋げていくこと。これが、僕にとっての挑戦であり「使命」だと強く感じています。

●プロフィール
NAOTO(ナオト)
1973年生、大阪府出身。東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動を始め、多数のアーティストのレコーディングやライヴに参加。楽曲提供、アレンジも行う。並行して自身のバンド活動も行いライヴハウスを中心に人気を博す。2005年『Sanctuary』でメジャーデビュー。クラシックからポップスまで、既存のジャンルに縛られない独自の音楽スタイルを確立。独特の感性と切れ味鋭い超絶技術、ハイノートの美しさがアーティスト達にも愛され、様々なミュージシャンとのコラボレーションも多い。2020年のデビュー 15周年はコロナの影響で予定変更がありながらも「NAOTO 15th Anniversary Live -The New Black-」を開催。ライヴDVDの完全生産限定版をリリースした。なお、日本スープカレー協会理事、カレーマイスター、ラジオパーソナリティーなど、多種多彩な活動をしている。