決してNOとは言わない。どうやってYESにするかを常に考える。 マジシャン、セロが描くマジックでつなぐ未来

初めてマジックを目にしたのはいつですか。また、そのときに感じたことは何ですか?

マジックを初めて見たのは、6歳のとき。親と親しいアイススケーターの女性選手に連れられてラスベガスに行き、そこで初めてライブショーを見ました。男性が白い手袋を投げるとパッと鳩に変わり、鳩がさらに美しい女性に変わって。その一瞬、一瞬が、夢を見ているようでした。「本当に魔法使いがいる!」と思ったんです。それ以来、マジックに心をつかまれました。そして10歳になった時、そのベガス行きの機会を作ってくれた彼女が、ハリウッドにあるマジック・キャッスル(会員制のマジッククラブ)の『プロマジシャンに教わる10回分のプライベートレッスン』を僕にプレゼントしてくれたんです。それまでマジックは魔法だと思っていたので、タネや仕掛けがあることをこの時初めて知りました。でも、レッスンはすごく面白かった。あの時から、僕のマジシャンとしての道が始まったのだと思います。

どんなレッスンを受けられたのですか?

トランプの扱い方、ハンカチの結び方といった、とてもベーシックなことが中心でしたが、最後の日にそのマジシャンから世界大会のパフォーマンスビデオ(VHS)を数本いただいたんです。夢中になってテープが擦り切れるほど見返しました。どうやったらこんなことができるだろうと、研究し続けました。

それほどまでに、マジックの虜になったのはなぜでしょう。

これは、ちょっと複雑な話になります。これまで語ることはなかったのですが、僕も40代後半になり、プロマジシャンとして新しい局面を迎えようとしている時ですから、お話ししますね。僕は、日本人で沖縄出身の父と、モロッコ系フランス人の母との間に生まれたハーフです。生まれたのはロサンゼルスですが、ふたりは僕が赤ちゃんのころに離婚しています。ロサンゼルスには、16歳まで父と暮らしました。今はインターナショナルな時代になりましたが、僕が子供の頃はまだそうでもなくて、英語が喋れないことで学校でも孤立していたし、勉強もついていけなかったんです。いつも、イライラしていました。自分が日本人なのか、アメリカ人なのか、ヨーロッパ人なのか、アイデンティティがわからなくなってしまって苦しみました。自分は何者なのか、空っぽで何もないと思ったんです。でも唯一、自分にしか持てないものを10歳で手にした、それがマジックでした。

マジックがセロさんの唯一の味方、心の拠りどころになったのですね。

そうです。マジックは、とても大切な存在です。もしマジックがなかったら、今の僕はないと思います。でも、そこから先も認められるまで大変な思いをしました。父親が家を失って僕は学校を退学し、沖縄のお婆ちゃんの家で暮らすことになったんです。でも、沖縄に行きたくなかった。お婆ちゃんは好きでしたが、若かったその頃の僕は、田舎の島で暮らすのが嫌でした。それで、成田空港に着いた後、東京に向かいました。手もとにあったのは、父親から渡された13万円だけだったのに。無謀でしょう(笑)。東京には知り合いがひとりだけいて、彼の6畳一間のアパートに転がり込んで、3年間お世話になりました。彼はアーティストでしたけれど、あまりお金がありませんでした。冬は寒いし、夏は暑い。そうした環境の中、1日1食という生活を送っていました。これから先、どうやって生きていこうと思った時、僕が唯一持っていた技がマジックだったんです。新宿の歌舞伎町や六本木、銀座などの店に営業をしました。

「タダでもいいですから、僕にマジックをやらせてください。その代わりチップが出たら僕にください」と。生きるために大人になるしかなかった。未成年だったけれど、時代がバブルで緩かったことも幸いしました。

セロさんにそのような経緯があったのは驚きです。

名前が知られるようになってからも、嫌なことはたくさんあって、常に叩かれているような状態でした。僕の心を見てくれる人はいなかった。人間の裏表というものを知りましたし、いちばん言われたのは『彼はハーフでルックスがいいから、仕事がもらえる』ということでした。ものすごく悔しかった。それを言わせないためにはテクニックを磨くしかないと、ひたすら練習するしかありませんでした。

そういった逆境に負けることなく、道を切り拓いてきたんですね。

負けず嫌いなんです。日本ではマジシャンという存在が認められていないから、手品師と言われたり、ちょっと上から目線な感じで扱われたり。嫌でしたね。アメリカではマジシャンという職業に、照明や音響など、ショーを盛り上げるためのあらゆるサポートがなされる。それなのに、僕たちは非常口の暗いところでマジックの準備するような毎日で。そういうことが、何年も続きました。

その間、もうダメだと思われたことはなかったですか。

思ったことはありました。でもある時、初めてテレビ出演の話をもらって、それが大変難しい設定でした。普通にパフォーマンスを見せるのではなく、日常生活をしながらマジックを作っていくという。頭を抱えて、それこそ泣きながら何年か作り上げていって、それが積み重なった時、いつのまにか世界のマジシャンの誰もできないことができるようになっていたんです。驚きでした。僕の武器となって、そこから人生がガラッと変わっていきました。
もともとチャレンジすることが好きなのですが、投げ出さなかったからこそ確立できたと思います。僕は決してNOとは言いません。NOという言葉は世界でいちばん嫌い。誰かにNOと言われたら、それをどうやってYESにできるかをいつも考える。AからZに到達するためにはどうするか。あらゆるシミュレーションをして、道を作っていくんです。BからC、CからD、DからE、F……と枝分かれさせていく。ダメなら一回巻き戻して、絶対に方向を探し出す。どんなことがあっても探し出すのが、僕の挑戦のスピリットですね。

子供の頃からの苦境といいますか、体験から培われたものでしょうか。

そう思います。次から次へと“自分を乗り越えていく”しかなかった。たとえダイヤの原石であったとしても、山に埋もれたままでは輝きません。何かを成すには、キツいプレッシャーが必要なんだと思います。

最高のパフォーマンスをするために、どんなことを心がけていますか。

難しいのですが、簡単にスマートに見せることですね。苦労しているマジシャンなんて誰も見たくないでしょう。そして心がけとは違いますけど、モチベーションとなっているのは、やはりファンという存在です。みなさんから感動と拍手をもらうたびに、僕はこれをやり続けなければいけない、と思う。みなさんからの温かな声援や喝采が、僕を動かしてくれる“ガソリン”ですね。

セロさんにとって、マジックの魅力とは?

僕にとってマジックは、人生そのものといえます。人生をやり直せるよと言われても、僕はまたこの道に戻ります。マジックの魅力……いまだに説明できないから表現しているのかもしれません。マジックは、人に与える不思議な光のような……一瞬の気持ち……かな。

今、世界中がコロナ禍にあって、エンターテインメントの世界も厳しい状況にあります。どのように受け止められていますか。

初めは落胆しました。でも、今は気持ちが復活して、心の中で炎が燃えています。2020年があったからこそ、考えたことがあります。いままでだったら、次のツアー、次の番組という考え方をしていましたが、今はエンターテインメントとして魅せるだけでなく、マジックで人と人とをつなげる、助け合うことをしていきたいと思うようになりました。コロナだけでなく、すべてがネット社会になってきて、みんなが直接コミュニケーションをとらない時代になってきていることを、いいことだと思っていません。マジックというツールを使って、楽しさ、温かさ、勇気を与えられる、そういうプロジェクトを考えています。新しい橋を架けて、これから渡ります。
マジックには、目に見えないチカラがあります。6歳の時、僕が感じた魔法=ミラクルを知って欲しい。マジックは世界共通の言葉ですから。
This is my new challenge! 僕の新しい挑戦を見ていてください。

●プロフィール
セロ
プロ・マジシャン。1973年、アメリカ合衆国出身。10歳からマジックを始め、15歳でマジックキャッスル・ジュニアのメンバーとなり、フューチャー・スターの経歴を持つ。16歳から日本在住。1994年、FISM横浜大会でイリュージョン部門1位となり、注目を集める。2004年『マジック革命! セロ!!』(フジテレビ系)がスタート。2007年、マジシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞。現在は、パートナーのジェーンと共にセロ&ジェーンとしても活動。アメリカ、アジア、ヨーロッパなどでショーを開催。世界各国で活躍している。