1974 ABARTH SE 030|アバルトの歴史を刻んだモデル No.054

1974 ABARTH SE 030(コードネーム)
アバルトSE 030

アバルトの技術集団としての仕事

1970年代の初頭、フィアットは新たな魅力を持つスポーツカーを生み出すべく、2台のミッドシップ・スポーツの開発を計画していた。1台はコードネームX1/8と呼ばれる車両。もう1台はフィアット128のコンポーネンツを部分的に流用したX1/9である。X1/9はベルトーネの手になるボディをまとい、1972年にデビュー。スーパーカーのようなスタイリングを持つ、手頃な価格のミッドシップ・スポーツとして成功を収めた。

X1/8プロジェクトの方は、販売台数が見込めないとの理由から一度は計画が棚上げとなったが、その後復活。コードネームX1/20と呼び名を変え、カロッツェリア・ピニンファリーナが参画しプロジェクトを進めた。エンジンは、2000ccのDOHC直列4気筒エンジン、またはフィアット130用の3235ccのV6エンジンを搭載することが検討された。


SE 030完成時にピニンファリーナのスタジオで撮影されたオフィシャルフォト。エンジンフード上に備わるペリスコピオが存在感を高めた。

そこでX1/20のボディにV6エンジンを組み込んだ試作車の製作依頼が、レーシングカー開発で技術の蓄積があったアバルトに寄せられた。アバルトは検証用の車両を製作。アバルト社内では、このプロジェクトはコードネームSE 029と呼ばれた。

このプロジェクトと並行して、X1/20をベースとしたレーシングマシンの開発案が浮上し、1972年にその製作依頼が同じようにアバルトのもとへ来た。このX1/20のレーシングバージョンはアバルト社内では、コードネームSE 030と呼ばれた。ロードレースで使用することを前提に、グループ5規定に基づく公道走行が可能な車両として計画が進められた。


ジーロ・ディ・イタリア終了後に開かれたトリノ・モーターショーに展示されたSE 030。競技参戦までに各部に変更が加えられ、リアフェンダーはさらに拡幅された。

アバルトはX1/20のホワイトボディをベースに製作を開始した。エンジンはベースユニットのストロークを5mm伸ばして排気量3481ccに拡大。ツインチョーク・ウェーバー48 IDFキャブレターを3基組み込み、アバルトマジックと呼ぶにふさわしい高度なチューニングにより、最高出力はノーマルの165psから285psにまで高められた。エンジンは横置きミッドで搭載され、5速のZF 5DS-25ギヤボックスを組み合わせ、リミテッド・スリップ・デフも備えた。

サスペンションはX1/20用のマクファーソンストラット式を踏襲しつつ、調整式のコイル/ダンパーを組み込み、アンチロールバーを追加。ブレーキも強化した。ホイールは、フロントに9J×13、リアには12J×13を組み、トレッドはフロントを104mm、リアは141mm拡大した。


ヘッドライトの下にはナイトセクション用に左右2個ずつの補助灯を追加。ボンネットの中央部は低く設定され、その下に大きなインテークが設けられた。

ボディはキャビン部分とドア以外はすべて手が加えられ、ボディパネルは軽量化のためGFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製とされた。ノーズには夜間走行に備えてヘッドライトの下に左右2個ずつ補助灯が組み込まれ、中央には冷却用の大きなインテークが設けられた。前後フェンダーは太いタイヤを収めるために大きく張り出していた。

アバルトSE 030を特徴付けるのがエンジンフード上の吸気用インテーク「ペリスコピオ」(イタリア語で「潜望鏡」の意)である。アバルトはそれ以前にもOT 1300などでペリスコピオを採用した実績があり、いわばアバルトチューンのレパートリーのひとつだった。

ジーロ・ディ・イタリアへの挑戦

SE 030は1974年10月末から開かれるトリノ・モーターショーへの出展が予定されていたが、プロモーションのため、その直前の10月15~20日に開催される「ジーロ・ディ・イタリア」への参戦が計画された。この「ジーロ・ディ・イタリア」は自転車のロードレースと同じ名称だが、当時、サーキットやヒルクライムの開催場所を公道で結ぶ、ラリーのような自動車競技として人気を博した。

ジーロ・ディ・イタリアのスタートラインに並んだアバルトSE 030。この年のジーロ・ディ・イタリアは、トリノをスタート後、ローマ近郊のヴァレルンガ・サーキットまで行き、そこからトリノまで5日間で戻るという過酷なルートだった。訪れるサーキットはイモラ、モンツァを始めとする9カ所で、ヒルクライムは4カ所設けられた。


アバルトSE 030を特徴付けるのがエンジン吸気用のインテークとなるペリスコピオ。アバルトチューンであることを物語るアイテムである。

ドライブしたのはアバルトのテストドライバー、ジョルジョ・ピアンタで、コドライバーはクリスティーヌ・ベッカーが務めた。ピアンタが駆るSE 030は本領を発揮して常にトップ争いを演じ、最終的にランチア・ストラトス・ターボに続く2位でフィニッシュした。そしてレース後にトリノ・モーターショーでその英姿をアピールしたのである。

オイルショックなどの影響から、X1/20の市販モデルには2000ccの4気筒エンジンが搭載され、最終的にフィアットではなくランチアから、ベータ・モンテカルロとして1975年に発表された。

SE 030はアバルトにとって、プロジェクトを影から支える技術集団としての仕事となったが、SE 030を手掛けた経験は、後にランチア・ラリー(SE 037)の開発へと繋がっていくのである。


2011年にジーロ・ディ・イタリアが復活した。アバルトは大会を協賛すると共にSE 030のカラーリングを再現した500アセット・コルセで36年ぶりに大会に挑んだ。

余談だがジーロ・ディ・イタリアは1989年に幕を閉じたが、2011年に復活する。往年と同様に5日間でトリノからローマまでのルートで、サーキットを巡る1677kmの行程を新旧のマシンが走った。アバルトは大会に協賛すると共にSE 030をイメージしたオレンジとイエローのアバルト500アセット・コルセで参加。元F1ドライバーのアルトゥーロ・メルツァリオがドライブして大きな注目を集めた。


ドライバーは3名のアバルト遣いのほか、元F1ドライバーでイタリアの英雄として人の高いアルトゥーロ・メルツァリオが加わり、大いに注目を集めた。

1974 ABARTH SE030

ホイールベース:2296mm
車両重量:910kg
エンジン形式:水冷V6 SOHC
総排気量:3481cc
最高出力:285ps/5600rpm
変速機:5段+後進1段
最高速度:275km/h