1982 LANCIA RALLY|アバルトの歴史を刻んだモデル No.012

161111_abarth_01

1982 LANCIA RALLY
ランチア ラリー

アバルトエンブレムを持つ美しきグループBラリーマシン

1971年にフィアットグループ入りしたアバルトは、それまでのモータースポーツでの実績が認められ、グループ内で競技用車両の開発を主業務として割り当てられた。記念すべき初仕事は、先般登場したアバルト 124 スパイダーの先祖である「アバルト 124 スパイダー ラリー」だった。外から見る限り、ベースとなったフィアット 124スパイダーとの差異はわずかだが、細部にまで徹底的に手が加えられ、高い戦闘力を発揮した。この時期、フィアットグループ内では、フィアット・アバルトのほかランチアが「ストラトス」でラリーに参戦していたが、量産モデルとかけ離れたストラトスでは市販車のイメージを向上させる効果が低いと判断され、1977年から市販車ベースのマシンでラリーに挑むことが決定された。

161111_abarth_02
リアから見るとワイドな車幅と短いオーバーハング、クーリングと放熱を考慮したリアカウルが、ラリーのために作られた兵器であることを誇示した。

こうして1976年に当時の主力サルーンである「フィアット 131」をベースとした「フィアット 131 アバルト ラリー」を送り出す。こちらはより過激なモディファイが行われ、大きく張り出したオーバーフェンダーがそのパフォーマンスを誇示していた。実戦でも圧倒的な強さを見せつけ、世界ラリー選手権(WRC)で1976年の1000湖ラリー(現ラリーフィンランド)で優勝したのを皮切りに、1977年になると数多くの勝利を勝ち取り、同年のメイクスチャンピオンをイタリアへ持ち帰ることに成功する。その活躍はさらに続き1978年、1980年のチャンピオンも勝ち取り、アバルトの優れたパフォーマンスを世界中に知らしめたのだ。

161111_abarth_03
市販されたロードバージョンのインテリアは豪華に仕上げられていた。しかしキャビンを横切り存在感を放つサイドバーが、その出自と用途を物語る。

1982年にFIAは複雑化していた車両規定を大幅に刷新した。「アバルト 124 スパイダー ラリー」や「フィアット 131 アバルト ラリー」は、当時のグループ4規定で製作されており、義務生産台数が400台と多かったため市販車をベースに製作された。しかし新たに用意された車両規定では市販車に近いグループAは5000台の義務生産台数が要求されたが、以前のグループ4に相当するグループBの生産台数はわずか200台へとハードルが下げられ、それ専用のモデルを製作しやすい環境となったのである。

161111_abarth_04
ランチア ラリーのエクステリアデザインはピニンファリーナが担当した。実戦用に作られたマシンとは思えぬ優雅なたたずまいを見せる。

アバルトにも、グループBマシンを開発する命が下された。アバルトは以前にランチア ベータ モンテカルロの原型といえる「アバルト SE030」を製作し、ジーロ・ディ・イタリアで2位に入るパフォーマンスの高さを立証していた。その後ランチア ベータ モンテカルロをベースとしたグループ5 シルエット フォーミュラマシンの開発をジャンパオロ・ダラーラと共に行い、ランチア ベータ モンテカルロ ターボ グループ5で1979年から国際スポーツカー選手権(現在のWECの前身)に参戦を開始する。初年度は本領を発揮できなかったが、翌1980年シーズンから実力を発揮し、マニュファクチャラーズ チャンピオンを獲得。その勢いは留まらず、1981年も連覇を果たした。

161111_abarth_05
フロントカウルを外すと、鋼管スペースフレームや実戦的なサスペンションアームなど純レーシングマシンの構造を持つことがわかる。

新規定によるアドバンテージを得るためにはいち早く新型マシンを投入する必要があった。そのための開発時間は限られていた。こうした状況の中でアバルトが下した結論は、既にノウハウの蓄積があるランチア ベータ モンテカルロをベースにしたラリーマシンを製作することだった。こうしてこの新型ラリーマシンには、アバルトの開発コード名である「SE037」が与えられた。車両規定にある義務生産台数に必要な200台は競技車両だけではクリアできないため、約200台のロードバージョンを市販することが決定された。

グループBの車両規定では排気量に応じて最低重量とホイール幅が決まっており、パワーを得るために排気量を拡大すると車重が重くなってしまうため、俊敏さが要求されるラリーカーには不向きだった。そこでアバルトはフィアット 131アバルト ラリーで使い慣れた2リッター直列4気筒DOHCユニットをベースに、低回転域からパワーを発揮できるスーパーチャージャーを組み合わせる方法を選んだ。当時の過給機係数は1.4だったため、実質的な排気量は2800cc相当となり、3000cc以下クラスの規定で開発が進められた。

161111_abarth_06
エンジンはフィアット 131 アバルト ラリーで熟成された2リッター直列4気筒DOHCユニットにスーパーチャージャーを組み合わせ、ミッドに搭載された。

アバルト SE037の開発には再びジャンパオロ・ダラーラの協力を得て、ランチア ベータ モンテカルロのセンター モノコックをベースに、その前後に新たに製作した鋼管スペースフレームを追加。サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーンだが、鋼管フレームにピロボールを組み合わせたサスアームの構造はレーシングマシンそのもので、フレーム側の取付け位置は当初から各々3カ所設けられるなど実戦に則した構造となっていた。パワーユニットは縦置きでミッドに搭載され、そこにレーシングマシンで使われるZF製の5段ギアボックスが組み合わせられた。エクステリアデザインはピニンファリーナが担当。ベータ モンテカルロの面影を残したエレガントなスタイリングが特徴で、最も美しいラリーカーと称された。

161111_abarth_07
最終的にはモデル名にアバルトの名が与えられなかったが、アバルトの人々の意地でさまざまな部分にサソリの痕跡が表現された。

1982年に発表されたコードネーム「SE037」は、ランチア ラリーの名で披露された。当初はモデル名にアバルトの名が入る予定だったが、ある事情から最終的に省かれてしまったという。そのためボディサイドにはアバルトのエンブレムが付き、カムカバーを始めとするエンジン回りにも”ABARTH”の文字が入れられるなど、アバルトが手掛けたモデルであることが主張されていた。また、現在このモデルは、「ランチア 037ラリー」と呼ばれることが多いが、それはアバルトのコード名を含めたマニア間の呼び方であり、正式にはランチア ラリーとなる。

161111_abarth_08
ランチア ラリーは、1982年からWRCに参戦し、1983年は戦闘力を高めた改良型を投入。メイクスチャンピオンを勝ち取った。

こうして送り出されたランチア ラリーは、1982年に実戦投入されるが、この年は熟成の時期といえた。翌1983年には大幅に改良を加えたエボ1が投入され、WRC開幕戦のモンテカルロラリーを皮切りにターマックラリーで圧勝し、見事メイクスチャンピオンを勝ち取る。しかしWRCではトラクション性能に優れる4WDマシンの優位性が決定的になり、アバルトも4WDグループBマシンのランチア デルタS4の開発に着手した。ハイパーグループBマシンの時代へと突入していった。こうしてランチア ラリーは、グループB最後の優美な2輪駆動チャンピオンマシンとしてファンの記憶に刻まれることとなった。

▲スペック
1982 LANCIA RALLY
全長 :3915mm
全幅 :1850mm
全高 :1245mm
ホイールベース :2240mm
車両重量 :1170kg
エンジン形式 :水冷直列4気筒DOHC+スーパーチャージャー
総排気量 :1995cc
最高出力 :205ps/7000rpm
変速機 :5段マニュアル
タイヤ(F・R) :205/55R16・225/50R16
最高速度 :220km/h