とびきりのエピソード溢れて ——トリノでアバルト70周年記念展——

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2019年は、カルロ・アバルトが1949年に自身のブランド「アバルト&C.」を設立してから70年。これを記念して1月、同社ゆかりの地トリノのヒストリックカー・ショー「アウトモトレトロ」で大規模なアバルト特集が企画された。

最初にアウトモトレトロについて記しておこう。同イベントは毎年1月末もしくは2月初旬に開催される。創設者兼オーガナイザーの“ベッペ”ことジュゼッペ・ジャノーリオは、長年自ら古典車のステアリングを握るジェントルマン・ドライバーでもある。

会場はフィアット社の歴史的工場棟で、現在は複合施設となっている「リンゴット」に隣接したメッセである。かつてトリノ自動車ショーの会場として数々のショーカーやプロダクションカーがデビューしたこと舞台でもある。

イベントは2019年で第37回。すでに冬のトリノにおける恒例行事として定着している。それを証明するように、今年の開会式には、トリノ市から観光政策担当のアルベルト・サッコ評議員も出席。1971年生まれの彼は「私自身も、幼稚園時代は、母が持っていたアウトビアンキA112アバルトで送り迎えしてもらっていました」と思い出話を筆者に打ち明けてくれた。

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左から「アウトモトレトロ」の創始者のベッペ・ジャノーリオ、同時開催の「アトモトレーシング」オーガナイザー、アルベルト・ジャノーリオ、FCAヘリティッジのロベルト・ジョリート部長、同じトリノの「パルコ・ヴァレンティーノ自動車ショー」のアンドレア・レヴィ、そしてトリノ市観光政策担当のアルベルト・サッコ評議員。

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アバルト70周年を祝ったFCAヘリティッジのブースにて。

今回のアバルト特集で主役を務めたのは、ブランドの公式ヒストリックカー・サービス部門「アバルト・クラシケ」である。

ブースで最初に来場者を迎えてくれたのは、「フィアット500エラヴォラータ・レコルド」だ。1957年に登場したばかりの大衆車・フィアット500をカルロ・アバルトがチューン。モンツァ・サーキットで168時間を走破し、6つの世界記録を樹立した。まさに小さな悪魔である。

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1957年フィアット500エラヴォラータ・レコルド(左)。

その脇には、同じくカルロ・アバルトが参画した1955年アルファ・ロメオ750コンペティツィオーネと、1982年ランチア・ラリーもディスプレイされた。

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アバルトが参画した1955年アルファ・ロメオ750コンペティツィオーネは、マリオ・ボアーノのボディワークとの高度な融合。後方右は、アバルト124 70 thアニヴァーサリー特別仕様車(日本未発売)。

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フィアット傘下入り後、同グループのコンペティション部門となったアバルトが参画した1982年ランチア・ラリー037ストラダーレ。グループBラリーのホモロゲーション用に200台製造されたうちの1台である。

しかしながら、今回のアバルト・クラシケ展示で最大のお宝は、1965年アバルト1000モノポスト・レコルド・クラッセGであろう。
すでに57歳を迎えていたカルロ・アバルトが自ら乗り込み、モンツァでの加速記録に挑んだマシーンである。実際に彼は同年10月、1/4マイル加速と500m加速で記録を樹立した。
コックピットを拡大して車両重量が増加してしまうのを避けるため、自らりんごを主食としたダイエットを決行。30kgの減量に成功したのは有名な逸話だ。

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57歳で“りんごダイエット”を敢行したカルロ・アバルトが乗り込んだ1965年アバルト1000モノポスト・レコルド・クラッセG。当時FIATによって新たに導入された1/4マイルと500m加速双方で記録を達成した。

なお、アバルト・クラシケのジャンフランコ・ジェンティーレ広報担当によると、2019年前半にトリノのミラフィオーリ街区の一角に、「ヘリティッジHUB」と称する施設をオープンするという。
これは、アバルト・クラシケも包括するFCAヘリティッジの総合ヒストリックカー・サービス施設である。
ヘリティッジ部門のトップ、ロベルト・ジョリートが掲げる「かつてのパワーをもって今日を生き抜くため、過去の限界を超えて歴史を探求してゆく」というミッションが、さらに一歩進むかたちだ。

サソリ70歳の誕生日をさらに盛り上げるべく、隣接するブースでも特別展が展開されていた。
フィアット500および600をベースにした歴代アバルト6台は、来場者にインパクトを与えたようで、絶えずカメラやスマートフォンのレンズを向けられていた。

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1970年フィアット・アバルト595(手前)をはじめ、フィアット500/600ベースのサソリたちが集う一角。

その周囲に散りばめられた1960-70年代のレーシング・モデルは、毎週末ヨーロッパ中のレースやラリーで、アバルトが暴れまわっていた時代を彷彿とさせるものだ。関係者のひとりは「イタリア半島のオーナーによる協力だけで、これだけの数のアバルトが集められとは素晴らしい」と驚きを隠さなかった。

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関連展示から。精悍なマットブラック塗装されたモデル(手前)は、かつてワークスで用いられた1964年アバルト・シムカ2000GTスポルト・コルサ。

なお同じブースには2019年シーズンに投入されるフォーミュラ4マシーン「スコルピオーネ70」も。こちらは、熱き走りの伝統が今日に繋がっていることを物語っていた。

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アウトモトレトロ会場には、フォーミュラ4の2019年シーズンを戦うマシーン「スコルピオーネ70」もディスプレイされた。

そうした小柄なアバルトが並ぶ中、異色ともいえるベルリーナ(セダン)を発見した。その名を「ランチア・トレヴィ・ビモトーレ」という。ノーマルのランチア・トレヴィと異なり、サイドに唐突ともいえるエアインテークが設けられている。

この車、1983年にアバルトのレース部門長であったジョルジョ・ピアンタ技師がプロジェクトを先導した車両だ。前輪を駆動する主エンジンに加え、後輪を駆動するために前席背後にも同じ2リッター・ユニットを搭載して4WD化を図っている。

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ランチア・トレヴィ・ビモトーレは、1983年にアバルト・レース部門のトップであったG.ピアンタ技師が企画した車両。2基のエンジンを搭載する。

「ビモトーレは残念ながら実戦に参加することはありませんでした。しかし、2基のエンジンをリンケージするために、当時の航空技術まで導入されたのです」
そう熱く解説してくれた人物に、名前を聞いて驚いた。
その名はルカ・ガスタルディ。イタリアにおけるアバルト研究の第一人者だ。今日アバルトを探求する者で、彼の本を参照しない人物はいない。アバルトの記念祭は、幸運なことに一流のヒストリアンとも引き合わせてくれた。

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当代イタリアにおけるアバルト研究の第一人者、ルカ・ガスタルディ。

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ショップが集う一角を覗く。新型車からヒストリックカーまで広く扱うトリノの著名自動車ディーラーも、今回はアバルトのコレクションを前面に打ち出した。

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フォーミュラ・フィアット・アバルトは当時、多くの若者にとってプロパイロットへの登竜門だった。写真は1980年のモデル。

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こちらも数々の若きレーサーを育てたフィアット・リトモ・アバルト130TC グループN仕様。

愛好者クラブも訪れてみる。「イタリア・フィアット保存会」がディスプレイしたのは、アバルト・スポルト2000(SE010)である。同車は1968年にワークスカーとしてデビューした。
その後、プライベートチームに売却されたあとのストーリーが波乱万丈だ。
クラブメンバーのジョルジョ・サンジョルジ氏によると、マシーンは最終的にあるプライベーターによって、レースをするためエチオピアへと渡った。しかし一党独裁政権による政変に直面。車両は突如国外に持ち出しできなくなってしまう。
「そこでオーナーは車両を分解して密かに輸出することで、最終的に車を国外脱出させたのです」。

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エチオピアから解体して“救出”された1968年アバルト・スポルト2000(SE010)。脇に立つイタリア・フィアット保存会のエドアルド・マニョーネ会長の喜色満面の笑みも印象的だ。

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アバルト製チューニング用マフラーの広告が記されたフィアット・トポリーノ。早くも初日にVenduta(ヴェンドゥータ=売却済)の札が。

ブースを訪ねるたび、そこにいる人々と会話を交わすたび、とびきりのエピソードが溢れ出る。カルロ・アバルトにとって約束の地トリノならではの、5日間にわたる熱きスペクタクルであった。

Report & photo 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA