カルロ・アバルトという男:3

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1930年、オーストリア・リンツ近郊で開催されたレースに参戦した22歳のカール・アバルトは、生命の危機に瀕するような大事故に見舞われた。そして、これを機に主治医からオートバイによるレースを禁じられてしまう。しかし、そんな忌まわしいアクシデントから2年近くが経過した1932年に、見事モータースポーツ界への復活を遂げることになった。

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1933年、カール自ら手掛けたサイドカーの設計を取得したミュイスル社の技術者およびメカニックの集合写真。前列左から二人目が弱冠25歳のカール・アバルトである。

カールが新たな相棒として選んだのは、オートバイに側車を装着したサイドカー。当時のヨーロッパでも最新鋭の乗り物で、同時代のインテリ層などの間で人気を得つつあった。念願の復帰を果たしたカールは、再デビュー早々から目覚ましい活躍ぶりを披露。1933年には早くも国内タイトルを獲得したばかりか、翌’34年シーズンも連覇を果たす。

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1934年、オーストリア・クリーオウのダートレースに参加したカール。このレースでサンビーム600ccに乗ったカールは、コースレコードを記録して総合優勝を果たしている。

また彼は、長きに及んだ療養期間中に画期的なサイドカーに関するアイデアを発案していた。通常のサイドカーは、バイクに完全に固定されているのだが、彼の発案した“シュウィングアクス”は、その車輪がバイク側のバンク角に対応して同じ角度にバンクする。つまり、コーナーリングスピードを格段に上げられるものだった。自ら設計・開発を手掛けた画期的なサイドカーを駆って、1935年シーズンも彼の連勝街道は続いた。そしてこれらの活躍によって、当時のヨーロッパにおける最強のサイドカー・レーサーとしての名声も獲得するに至ったのだ。

またサイドカーというカテゴリーそのものの人気を高めるため、カールは1934年4月に、当時ヨーロッパで隆盛を極めていた豪華寝台列車「オリエント急行」とのスピード対決を発案する。そして、オステンド(ベルギー)~ウィーン間の1372kmの行程を21時間50分で走破し、見事オリエント急行に打ち勝って見せたのである。のちにあらゆる局面で見せるアイデアマンとしての資質、およびその発想を実行に移す行動力は、このとき既に備わっていたことになる。
ところが、オーストリアを代表するスポーツマンとして名声を得ていた若きカール・アバルトの運命は、再び思わぬ方向へと転がっていくことになる。母国オーストリアを中心にレース活動を続けていた彼だが、オーストリアでは隣国ドイツから起こったナチズムが、猛烈な勢いで台頭していた。父カール・アントン譲りの自由人としての気質を持っていた彼に、ファシズムの閉塞感は我慢できないものだったようだ。そこで彼は父の母国であり、同じ枢軸国ながら多少は自由が残っていたイタリアを拠点に、サイドカーによるレース活動を行うことにした。

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1935年のクリーオウ。自らが発案した新機軸のM.P.社製サイドカーとともにオーバーオールウィナーとなったカール・アバルト。バイクはベルギー製のFNに変更された。

ところが、ユーゴスラビア・ルビアーノで開催されたレースで再び大事故に見舞われ、こんどは昏睡状態が続くような大けがを負ってしまう。そして、カールがようやく死地から回復した時には既に第二次世界大戦が勃発しており、ウィーンに戻ることは困難となっていたのだ。

ここでカールは、自身のその後の人生に関わるような、重要な決断を迫られることになる。そして彼は悩んだ末、イタリアからオーストリアに渡った父親とは逆の道を選ぶこととした。彼はドイツ語読みの“カール”からイタリア式に“カルロ”と名を変え、生活の本拠もイタリアに置くこととしたのだ。
こうして、ついに歴史上に“カルロ・アバルト”の名が記されることになったのである。

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カールが暖めていたアイデア“シュウィングアクス”の作動状況が良く分かるショット。車輪がバイク側のバンク角に対応して同じ角度にバンクすることで、旋回性能が飛躍的に高まったという。

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1936年シーズンのレースに、愛車M.P.社製サイドカーをつけたFN600ccとともに臨むカール・アバルト。写真のヴォラルベルクでも当然のごとく優勝を獲得し、このシーズンも年間タイトルを守った。

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