アバルト伝説を築いた男たち①【タツィオ・ヌヴォラーリ後篇】

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第二次世界大戦がようやく終わりを告げた時、タツィオ・ヌヴォラーリは既に53歳。黒々としていた髪にも、白いものが多く混じるようになっていました。
戦争の直前と直後に、長男ジョルジオと次男アルベルトを相次いで病気で亡くし、闘うモチベーションも大いに喪われていたタツィオでしたが、スピードに懸ける本能を満たすと同時に「ヌヴォラーリの時代は終わった?」とささやく周囲の声に対し、自らの健在ぶりを証明するためにレースに赴きました。ですが、この時期になるとタツィオ・ヌヴォラーリの肉体にはある“爆弾”が住み着きはじめていたのです。有害な排気ガスに曝される当時のレース関係者には、職業病にも近い存在だった喘息が彼の身体を蝕んでいました。
それでも、ヌヴォラーリはレースを辞めるつもりなどさらさらありませんでした。
戦後のイタリアで最初にレース活動を復活させたのは、新興コンストラクターのチシタリア。まずは専用に開発された1100ccのフォーミュラマシン“D46”とともに、ヌヴォラーリはレース界に復帰したのです。ステアリングホイールが外れてしまったマシンを必死で操り、ピットまで還りついた有名なエピソードは、この時代、1946年トリノ近郊で開催されたボワチュレット格式のGPレース“ブレッツィ・トロフィー”です。
そして1947年、戦後の復活戦となるミッレ・ミリアに、ヌヴォラーリは僅か1100ccという小さなチシタリア202スパイダーに乗ってエントリーしたのです。この時、チシタリアのワークスチーム“スクアドラ・ピエロ・ドゥジオ”にてチームマネージャーを務めていたのが、かのカルロ・アバルトでした。カルロとチシタリア当主のピエロ・トゥジオはベルリネッタでの参加を勧めたが、慢性的な喘息に苦しむタツィオはベルリネッタの狭いコックピットの圧迫感を好まなかったため、スパイダーを選んだともいわれています。
結局、戦後最初のミッレ・ミリアは名手クレメンテ・ビオンデッティの駆るアルファロメオ8C2900Bに名を成さしめる結果となったが、マシンの圧倒的な排気量差をカバーし、2位でフィニッシュした55歳のタツィオ・ヌヴォラーリの素晴らしいパフォーマンスに、観衆は賞賛を惜しみませんでした。ヌヴォラーリは老壮を迎えても、まだ健在だったのです。
1949年、経営破綻したチシタリア社を継承するかたちで“ABARTH & C.”社が創立。直後に新たなワークスチーム“スクアドラ・カルロ・アバルト”が結成され、そして新チームでもリーダーとして迎えられたタツィオは、カルロ自身が設計したアバルト・チシタリア204Aとともにイタリア国内外のスポーツカーレースにエントリーを続けることになるのです。
しかし、58歳をとうに越えた1950年4月10日、パレルモ~モンテ・ペレグリーノ・ヒルクライムにて愛機アバルト204Aとともに挙げた勝利を最後に、この偉大なるパイロットのキャリアは永遠に閉じられることになりました。もはや彼の肉体は限界を超えていたのです。
喘息の症状はいよいよ重くなっていた上に、1952年11月には、脳内出血までが国民的英雄を襲いました。それは、レースのケガならことごとく復活してきたタツィオにも、ついに最期の時が訪れつつあることを意味していたのです。
マントヴァの教会から駆けつけた司教は、忌の際のタツィオに向けて優しく、そして静かに語りかけた。「汝の魂は、天国にあっても速く走らん・・・・。」
1953年8月11日6時30分、タツィオ・ヌヴォラーリは天に召されました。かつての偉大なるチャンピオンのなきがらは、本人の遺言で、自身が愛用していたレース用のユニフォームを着せられて埋葬されたといいます。


外れたステアリングホイールを掲げながらサーキットを走るヌヴォラーリ。

スクアドラ・カルロ・アバルト時代のヌヴォラーリ。左はカルロ・アバルト本人。

通称、ヌヴォラーリ・スパイダーと呼ばれるチシタリア202スパイダー。【トリノ自動車博物館所蔵車両】