アバルトのヘリテージ#002 フィアット・アバルト750GT

創業当初から1950年代中盤にかけてのアバルトは、処女作204Aを皮切りに207Aや209Aなどのレーシングスポーツを製作する小規模コンストラクターに過ぎなかった。当時のイタリアでは、いわゆる“虫系”スポーツカーを製作するバックヤードビルダーが乱立していたのだが、黎明期のアバルト社もその一つだったのだ。
しかし、アバルトがほかの小規模コンストラクターたちと決定的に違ったのは、レーシングカーないしはピュアスポーツカー専業であるに留まらず、おそらく自動車史上でも世界初となる“チューニングカー”というジャンルを開拓したことだろう。

アバルトの開祖カルロ・アバルトに決定的なインスピレーションを与えたのは、1955年初のジュネーヴ・ショーで発表されたフィアット600だった。彼はその慧眼をもって、大量生産の国民的大衆車である600が、実はスポーツ性能でも極めて高いポテンシャルを秘めていることを発見。それをベースとしたチューニングカーを製作することを思いつく。

カルロはまず、スタンダード600用の4気筒OHVエンジンに備えられた簡素な鋳鉄製クランクシャフトを、輝くほどに美しい鍛造製に換装。そして、その新しいクランクシャフトによってストロークは8mm延長され、61mmのボアはそのまま、排気量を633ccから747ccにアップさせている。また、ヘッド周りにも念入りなチューンを受けた上に、ダウンドラフト・ウェーバー・キャブレターは32IMPEまで大径化され、“ABARTH”ロゴが浮き出されたアルミ製専用インテーク・マニフォールドに装着された。

これらのチューニングにより、ノーマル600と比べるとほぼ2倍、21.5psから41.5~47psまで増強されたエンジンを搭載したアバルト750だが、エンジンにこれだけ多岐に亘るチューニングが施されたのに対し、シャーシーは事実上ストックのままであった。これは決して手を抜いたわけではなく、その必要が無かったからである。事実、のちに100ps近いパワーを与えられたビアルベーロ1000さえも、ほぼこのままのシャーシーを流用していたのだ。

フィアット600のデビューと同じ1955年の末に発表したアバルト“750デリヴァツィオーネ”は、さっそく翌’56年春の“ミッレ・ミリア”で大活躍を見せるなど、当時のモータースポーツの現場に華々しい登場を果たすことになった。そしてカルロ・アバルトは、次なるアイデアを即座に実行に移す。それはアバルト750デリヴァツィオーネの基本コンポーネンツを流用した、純粋なスポーツカー&レーシングカーを開発することだった。

フィアット600用フロアパンとアバルト製750デリヴァツィオーネ・ユニットを、当時のイタリアには数多く存在したカロッツェリアに供給することにしたアバルトは、1955年のトリノ・ショーにて、207A以来アバルトとともに確たる実績を挙げてきたカロッツェリア・ボアーノとともに、“210A”という小さなレーシングバルケッタを発表する。

210Aはその後生産バージョンとなるスパイダーも製作され、若干数が量産されたというが、実は同じ1955年のトリノ・ショーにて、カルロは運命的な出会いを果たしていた。それはミラノを代表する名門カロッツェリアのザガートが、フィアット600をベースに自主製作したベルリネッタ。このクルマの魅力を認めたカルロは、1台のベルリネッタの製作をザガートにオファーした。

そしてこの提案に応えて製作されたのが、のちに“フィアット・アバルト750GT”の主力となったベルリネッタの最初期モデルである。スカリオーネ/ベルトーネ製の空力的なクーペ、カロッツェリア・ヴィオッティ製の瀟洒なクーペ、カロッツェリア・ギアがスタンダード750デリヴァツィオーネを豪華にドレスアップしたモデルとともに翌’56年のジュネーヴ・ショーに出品され、その4台の中でも最も大きな反響を得たことから、量産化が決定するに至った。

1956年のジュネーヴ・ショーにて、ベルトーネやヴィオッティ製のクーペとともに登場したザガート製750GT(左端の白いクルマ)は、ここで高い評価を受けて量産化に至った。

ところが、ザガートが空力を追求するあまり徹底して低く設定されたルーフは、カルロ自身をはじめとする大柄なドライバーがヘルメットをかぶって乗るにはヘッドルームが不足してしまうとの評価を受けたことから、この年秋のトリノ・ショー以後に製作されたシリーズ2では、ルーフの左右に大きな“こぶ”を追加。のちにアバルトのアイデンティティとなる“ダブルバブル”が誕生することになったのである。

特徴的な“ダブルバブル”が良く分かるフロントビュー。1950年代当時のカロッツェリア・ザガートのデザインセンスの高さと、卓越した空力テクノロジーが伺われるに違いない。キャビン内のヘッドルームを稼ぐための“こぶ”とリアエンジンフードのエアインテークを“ダブルバブル”で反復させたデザインは、現代彫刻のような美しい造形を成している。


ホイールベースにして僅か2000mmの超小型車ながら、完璧なプロポーションを誇っていたサイドビュー。“アバルトパターン”のアロイホイールは、のちに装着されたものだろう。

ところが、それからわずか数か月後の1957年初頭にはノーズをいっそう洗練したデザインとし、リアエンドもスタイリッシュなテールフィン状にソフィスティケートした完成形、いわゆる“シリーズ3”に進化。翌年当時のフィアット会長、ヴィットリオ・ヴァレッタとの間で“フィアット・アバルト”名義でエントリーしたレースで優勝した際にはフィアット本社から報奨金が出る特約が締結されたことから、“フィアット・アバルト750GT”という正式車名とともに、アバルトの主力モデルとして大ヒットを博した、そして肝心のモータースポーツでも、1957年のミッレ・ミリアで小排気量GTクラス優勝を獲得するなどの大活躍を見せることになったのである。

オリジナルのホイールは12インチスチールに、アルミ製のハーフキャップが定型。当時のオプションでは、こんなスピンナー風のアクセサリーを装着した例もあったようだ。
グリル型オーナメントと“サソリ”の紋章で構成されるエンブレムは、フィアット600ボディを流用したアバルト750用エンブレムが、そのままザガート製ボディに融合している。


大径メーターやアバルト製ステアリングなど、イタリアンGTの雰囲気が横溢するインテリア。これはザガート製750GTスパイダーのものだが、ベルリネッタもほぼ共通の意匠だ。
フィアット600用633ccユニットを拡大、アバルトが高度にチューニングした直列4気筒OHV747ccユニット。最もチューンの高いスペックでは47psのパワーを発揮した。


フィアット・アバルト750GTは、イタリア本国やドイツなどのヨーロッパはもちろん、アジアや中南米にも輸出された。中でも生産数の6割以上を占める大市場となったのが、合衆国元大統領フランクリン・D.ルーズベルトの第3子、フランクリン・D.ルーズベルト・ジュニアが総代理権を有していたアメリカである。

また、同じカロッツェリア・ザガートがボディワークを担当するスパイダーやカロッツェリア・アレマーノ製のスパイダー、あるいはジョヴァンニ・ミケロッティのデザイン/カロッツェリア・ヴィニャーレ製作の超未来的なベルリネッタ“ゴッチア”など、実に多彩なバリエーションモデルが、それぞれ少数のみ製作されるなど、750GTシリーズは’50年代末のアバルトのイメージリーダーとしても活躍。1960年代にコルソ・マルケが迎える黄金時代にとっても、単なる“プロローグ”以上の存在となったのである。

北米マーケットを主目的としてザガートが製作した750GTスパイダー。ベルリネッタ同様、いくつかのシリーズに分かれるが、いずれもごく少数の製作に終わっている。
ジョヴァンニ・ミケロッティのデザイン、カロッツェリア・ヴィニャーレ架装で実験的に製作された“ゴッチア(=水滴)”。先進的すぎるデザインが祟り、量産には至らなかった。
1957年にレーシングベルリネッタ“レコルド・モンツァ”をデビューさせたザガートが、750GTをロードユーズに供する顧客のために1959年から製作した“セストリエーレ”。