カルロ・アバルトという男:1

これまでScorpion Magazineでは、かつての黄金時代、1940-70年代のABARTHが創ってきた名作の数々をご紹介してきたが、今回からスタートする新企画「カルロ・アバルトという男」シリーズでは、ABARTHの開祖カルロ・アバルトその人にスポットライトを当てることで、彼と旧ABARTH&C.社の綴ってきた歴史を辿ってみることにしたい。

「不屈の精神の萌芽」
カルロ・アバルトは、1908年11月15日に生まれた。生誕地は、当時オーストリア・ハンガリー帝国の首都だった文化の都ウィーン。そして生まれたときの名前はカール(Karl)。すなわち、カルロ(Carlo)の同義のドイツ語名である。
もはや周知の事実かも知れないが、われらがカルロ・アバルトは純粋なイタリア人ではない。彼の父は、息子とは逆に“カルロ”として生まれ、長じてウィーンに渡り“カール・アントン”と名乗ったイタリア系オーストリア人。そこで純オーストリア人女性、ドーラ・タウジッヒと出会い、結婚する。そして、一人の姉に次いで生まれた長男がカールで、その国籍は当然のごとくオーストリアに定められることになる。
母親の生家が裕福だったことから、カール少年は経済的には何不自由なく育っていったが、家庭環境はかなり不安定なものだったという。父カール・アントンは、職を転々とする自由人だったのだ。そんな両親の結婚生活は、カール少年がまだ幼い頃に破綻。母方に引き取られたカールは姉とともにウィーンに定着することになった。それでも、イタリア人の血に相応しい情熱と卓越した美的センス、そしてゲルマン系の精緻の双方を受け継ぎつつ、たくましく成長していった。

しかし、カール少年が両立していたのはそれだけでない。彼は学校に進むと間もなく「文武両道」、つまり学業でもスポーツでも、単に“非凡”という以上の成績を示すようになったのだ。中でもカール少年を魅了したのは、20世紀初頭の最新科学たる機械工学。そして、これも当時の裕福な若者が憧れた最新のスポーツ、自転車競技であった。特に自転車では、その恵まれた体格を生かして全国クラスの選手に成長していたカール少年だったが、ティーンエイジャーになると再び生来の機械好きの要素が現れてくる。そうなってくれば、進むべき道は明らかだろう。機械工学+二輪車という両方の要素を持つ乗り物、すなわちオートバイへと傾倒してゆくことになったのである。
18歳になったカールは、地元に本拠を置くイタリア系の自動車工房“カスターニャ&C.”社に入社。見習いメカニックとして働き始める一方、プライベートで2輪レースのメカニック兼テストライダーとしての活動を開始する。しかも、向学心も失っていなかった彼はウィーン大学にも進学。二足ならぬ三足のワラジという多忙な日々の中、20世紀初頭最新の機械工学をレースの現場と研究室の双方から会得していった。
そして翌年、オーストリアの二輪車メーカー“モトール・トゥーン(MT)”社にエンジニア兼テストライダーとして就職し、10代にして早くも憧れのグランプリレースを体験することになる。ところが1908年春に開催されたこのGPデビュー戦にて、カール少年は信奉していた先輩たちから酷薄な裏切りを受けてしまうのだ。

カールは予選で先輩であるエースライダーを打ち破り、ポールポジションを獲得したのだが、チームは半ば言いがかりにも近いクレームをつけて、前年のディフェンディング・チャンピオンである先輩ライダーのマシンと交換することを要求。しかも交換されたマシンは、決勝レースで明らかにメカニックの故意と思われるエンジントラブルを発生し、カールはリタイアを余儀なくされてしまう。しかもこの事件により、まだ弱冠19歳に過ぎないカールは、MT社から追放されてしまったのである。
しかしカールの不屈の根性が初めて発揮されたのは、この直後のことだった。彼はプライベートで購入した英国製バイクを駆って、失意のデビュー戦からわずか数週間後に開催されたザルツブルグのレースに単身エントリー。堂々の初優勝を果たすことになったのである。
こののち“カール”および“カルロ”アバルトは数多くの苦難に見舞われつつ、その都度不屈の闘志とともに復活を遂げてゆくことになるのだが、今回ご紹介したエピソードはまさしく彼の不撓不屈の精神の萌芽と言えるだろう。
次回は、カール・アバルトの2輪レーサーとしての栄光と挫折についてお話しさせていただくことにしよう。

カルロ・アバルトという男:2
カルロ・アバルトという男:3
カルロ・アバルトという男:4