カルロ・アバルトという男:2

「若きカールの栄光と挫折」
地元ウィーンの二輪車メーカー、モトール・トゥーン(MT)社にエンジニア兼テストライダーとして就職し、大規模なグランプリレースにも出場を果たした若き日のカール・アバルトが、信奉していた先輩から酷薄な裏切りを受け、チームを去ることになってしまったストーリーは、前回お話ししたとおりである。

ところがここで早くも彼は、持ち前の不屈の闘志を見せつけた。プライベートで購入した英国製バイク、グリンドレー・ピアレスを駆って、デビュー戦直後、1928年7月29日に開催されたザルツブルグのレースに単身エントリー、堂々の初優勝を果たしたのだ。
この時の勝利によって弱冠20歳のカール青年は、当時ドイツで最強と言われていたDKWチームとの契約を獲得。さらに英国製二輪車メーカー、ジェームズ社とも契約を結ぶに至った。そして彼は、若手のホープとしてサーキットレースはもちろん、ヒルクライム、ヨーロッパ中のビッグイベントにエントリー。周囲に期待に応えて大きな活躍を収めることになる。

1928年7月29日、自ら購入したグリンドレー・ピアレスとともに初優勝を果たしたカール。MT社で受けた裏切りからわずか数週間後に、見事リベンジを果たしたことになる。

さらには、自身の名を冠した水冷2ストロークエンジンを搭載したマシンを開発するなどの取り組みで、黎明期のオーストリア二輪車界を牽引する、若きカリスマとして認知され始めていたのである。
そのまま順調に行けば、今日「カール・アバルト」の名は往年のGPライダーとして、二輪レース史に残っていたのかも知れない。しかし、運命の皮肉は順風満帆で怖いものなど何もなかったはずのカールに襲いかかった。

1929年、バーデンで行われたレースにて、175ccの英国車ジェームズに乗って優勝を飾ったカール。向う見ずにも見えるライディングスタイルで、大衆の人気を集めることになる。

カール・アバルトと、自らの名を冠した初のモーターサイクル。このマシンは単気筒250ccで、当時の二輪車ではまだ珍しかった水冷式のヘッドとラジエーターを与えられていた。

1930年、オーストリア・リンツ近郊で開催されたレースに参戦した21歳のカールは、生命の危機に瀕するような大事故に見舞われてしまう。特に右足を痛めた彼は、しばらくはバイクに跨ることさえ困難な状況に追い込まれた。そして、これを機に主治医から二輪車レースを禁じられてしまうことになったのである。
ところがカール青年の意思と野心は、この程度の挫折で屈するような脆弱なものではなかった。学生時代から出入りしていたウィーンの二輪車ショップ、ディガン社にコンサルタントとして迎えられたカールは、ここで二輪車用の高効率マフラーを開発・販売するという画期的なアイデアを思いつくのだ。これは、20年後に登場する“アバルト・マフラー”の起源とも言うべきものとなった。

自身の設計したエキゾーストシステムを装着した英国車サンビーム500ccとカール。このマシンで、ウィーン~インスブルック間のトゥルン峠コース572kmを8時間37分で走破。

さらに彼は「二輪がダメなら三輪のサイドカーで」とばかりに、自ら設計・開発を手掛けた画期的なサイドカーを駆って、リンツでの忌まわしいアクシデントから3年が経過した1933年に、見事モータースポーツ界への復活を遂げることになったのである。

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