カルロ・アバルトという男:4

イタリアの永住権と「カルロ」という新しい名を得たアバルトは、イタリアを拠点にサイドカーレース活動を展開し、オーストリア時代にも負けない活躍を見せていた。
ところが1939年10月、ルビアーノという町で開催されたレースにおいて彼は再び激しいアクシデントに見舞われ、生死の境を彷徨うほどの大けがを負ってしまう。しかも、時は既に第二次大戦を迎えており、ヨーロッパはモータースポーツなどとても不可能な状態に陥っていた。
そしてカルロは、レーサーとしての現役引退を余儀なくされたのだ。
第2次大戦がようやく終結した1945年9月、カルロ・アバルトは正式なイタリア国籍を認められたものの、自身が望んでいた自動車やモーターサイクルの技術者としての仕事などあるわけも無かった。
そこで自転車販売や、半ば騙されるかたち東洋製の高級カーペットの販売にも手を染めるが、いずれも上手くはいかず不遇の時を強いられていた。

そんな折、トリノに居たカルロは、戦前から親交のあったウィーンのポルシェ設計事務所に所属するエンジニア、ルドルフ・フルシュカの訪問を受ける。フルシュカは、当時プロジェクトが進行中だったF1マシンのため、その設計を担当したポルシェ側のオブザーバーとしてトリノのチシタリア社に赴き、製作指揮に当たっていたところだった。

ほどなくフルシュカの強い推挙でアバルトもチシタリア社に出向し、F1マシンの製作を指揮するエンジニア兼テストドライバーとして力を揮うことになった。
また、この時期アバルトは、チシタリア202SMM“スパイダー・ヌヴォラーリ”に代わる新兵器として、フィアット1100用エンジンを搭載する“204”も設計することになった。

ところがポルシェがチシタリアのために設計し、カルロたちが開発を補助していたF1マシン“タイプ360”は、ミッドシップに置いた水平対向12気筒1.5リッター+スーパーチャージャー付エンジンで4輪を駆動するという、1940年代末としてはあまりにも先進的なマシン。ところがその高度な設計が災いして、莫大な開発費用が次第にチシタリア社そのものの経営を傾けてしまうことになるのだ。
結局1948年末にチシタリア社は倒産。経営者のピエロ・ドゥジオは新天地を求めてアルゼンチンに渡った。
一方、カルロたちチシタリア社のスタッフに残されたのは、カルロ自身が設計したまま計画が頓挫していた204スパイダー用の部品の山と、抵当権が何重にも掛けられた本社ファクトリーだけだった。

しかし、ここでカルロ・アバルトに救世主が現れる。チシタリアのワークスドライバーとして活躍していた裕福な若者、グイド・スカリアリーニとその父親アルマンドである。スカリアリーニ親子は、ポルシェから派遣されたオブザーバーという立場を超えてチシタリアに惜しみない助力を与えたアバルトの素晴らしい技術力と経営能力、そして人望に富む気質に至るまでを高く評価しており、資金を援助してアバルトを長とする会社を設立するよう申し出たのだ。
カルロの気持ちは揺れたに違いない。祖国オーストリアに戻る、あるいはドイツでポルシェの門を叩く、どちらの道を選んでもアバルトには活躍の場が約束されていたはずであった。
しかし、彼はチシタリアで苦労をともにし、今や自分に命運を預けてくれている大切な仲間たちを見過ごしには出来なかった。

こうして母国オーストリアへの郷土愛を断ち切ったカール、いや「カルロ」アバルトは、イタリアに根付いたコンストラクターとなる覚悟を決めた。
そして、チシタリア社から人員・設備などほぼそのまま引き継いだ“居抜き”のかたちで、イタリアのモータウン、トリノはトレカート通り10番地に「アバルト&C.」社を設立したのだ。
1949年4月、カルロ・アバルト40歳の再出発だった。


シタリア グランプリカーの最初のプロトタイプ、1950年初めに多くの問題を抱えながら組み立てられた。


チシタリア時代のカルロ・アバルト(右)、イタリアの伊達男の印象が強い。

カルロ・アバルトという男:1
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カルロ・アバルトという男:3

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