FIAT ABARTH 750 RECORD CAR|アバルトの歴史を刻んだモデル No.030

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1956 FIAT ABARTH 750 RECORD CAR
フィアット・アバルト速度記録挑戦車

アバルトのもうひとつの挑戦

創始者カルロ・アバルトが指揮をとっていた頃のアバルトというと、フィアットをベースに高性能化したマシンや専用開発されたマシンでレースを席巻していたイメージがあるが、カルロ・アバルトはもうひとつ大きな野望を抱いていた。それは世界速度記録への挑戦である。

世界速度記録は、周回するコースを長時間高速で走行し、その平均速度を競うものである。走る距離は短いもので100kmあるいは100マイル(160km)、長いものでは10万kmというものもある。世界の様々なメーカーがチャレンジしており、日本でもトヨタが1966年に2000GTが1万マイル連続走行に挑み数多く新記録を樹立、1989年にはスバル・レガシィが10万kmクラスで新記録を刻んだのをご存じの方も多いだろう。速度計測中は給油やタイヤ交換などのメンテナンスは最低限に限られ、重整備は制限が設けられた。参加車両はほぼノーメンテナンスで高速走行を持続することになるため、スピードだけでなく、高い耐久性も求められたというわけだ。

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最初のレコードカーは空気抵抗を低減させるためフルカバータイプとされ、総アルミニウム製のボディの製作はカロッツェリア・ベルトーネが担当した。エンジンはデリヴァツィオーネ750用を44HPまでチューンアップして搭載した。

アバルトの世界速度記録への挑戦は1956年に始まる。この頃アバルトは「フィアット・アバルト750デリヴァツィオーネ」や「フィアット・アバルト750GTザガート」を世に送り出し、メーカーとしての認知度を高めていた。そうしてカルロ・アバルトの闘いの魂に火がついたのだろう。

最初の速度記録挑戦車は、フィアット・アバルト750デリヴァツィオーネをベースに開発された「フィアット・アバルト750レコードカー」。デザインとボディの製作はカロッツェリア・ベルトーネが担当し、空気抵抗を低減するストリーム(流線型)ラインを採用。前面投影面積を小さくするために乗車定員を1人乗りに限定し、シートを車両のセンターに配置。ボディパネルは軽量なアルミニウム製とされた。エンジンは750デリヴァツィオーネ用をベースに圧縮比を9.0:1から9.8:1まで高めるなどのチューニングを施し、最高出力は44ps/6000rpmを発生した。こうして誕生したフィアット・アバルト750レコードカーは車重がわずか385kgに抑えられ、最高速度は192km/hをマークした。

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ドライバーはセンターに座るモノポスト・レイアウトで、クローズド・コックピットのキャノピーは戦闘機のように前ヒンジで開く。コックピットの背後には直進安定性を高めるといわれる背ビレのようなテールフィンが特徴だった。

そのアバルト初のレコードカーは、1956年6月17日にモンツァ・サーキットに姿を見せた。初チャレンジは、クラスH(501~750cc)にて24時間オーバーの走行に挑み、イタリア人若手ドライバーのウンベルト・マリオーリ、マリオ・ポルトロニエーリ、アルフォンソ・ティエーレ、そしてレモ・カッティーニの4人にステアリングが託された。

夜20時過ぎに開始された速度記録挑戦は あいにくの強い雨と霧に悩まされたものの、入念に製作したマシンは快調に周回を重ねノントラブルで走行を続ける。スタートから24時間後には3763.642kmを走破、平均速度は156.985km/hに達し、記録を塗り替えることに成功した。

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当初レコードカーのボディカラーはシルバーだったが、6人のモーター・ジャーナリストによるチャレンジの際はレッドを基調にホワイトを配したカラーリングで、中央にダークブルーの細いストライプが入れられスタイリングが強調されていた。

こうして大成功に終わった初挑戦だったが、悪条件のなかでも高い信頼を実証できたことから、カルロ・アバルトはさらなるアイデアを実行に移す。それはレコードカーの操縦を6人の有名なモータージャーナリストに託し、ヨーロッパ各国の自動車専門誌にその模様を掲載してもらい、アバルトの高性能かつ信頼性の高さをプロモーションするものだった。

招かれたモータージャーナリストは、ベルギーのポール・フレール氏、フランスからはベルナール・カイエ氏、スイスのヴァルテル・ホーネッゲル氏、ドイツはH.U.ヴィーゼルマン氏、そして地元イタリアからはレーサーであり「アウト・イタリアーナ誌」エディターのジョヴァンニ・ルラーニ伯爵という腕利きの6人だった。

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2回目の速度記録チャレンジは6人の有名なモータージャーナリストに任された。左からイギリスのゴードン・ウィルキンス、フランスのベルナール・カイエ、ドイツのH.V.ヴィーゼルマン、ベルギーのポール・フレール、スイスのヴァルテル・ホーネッゲル、イタリアのジョヴァンニ・ルラーニ伯爵、そしてカルロ・アバルト。

こうしてモータージャーナリストによる速度記録チャレンジの第2弾は、6月27~29日にかけてアウトドローモ・モンツァ(モンツァ・サーキット)で行われた。使用されるレコードカーは先の挑戦に使われた車輌だが、今回は長距離を走行することから耐久性を確保するため若干のデチューンを施した。ところがスタートから7時間後にトラブルが発生する。カルロ・アバルトはすぐさま中止を決断し、トリノのファクトリーに搬送して新品のエンジンに交換し、再びモンツァに戻り翌朝から仕切り直すことにする。

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1958年に送り出されたピニンファリーナがデザインしたアバルト500レコードカー。鋼管スペース・フレームにフィアット500用の479ccエンジンを36HP/6800rpmまでチューニングし搭載された。9月27日からアウトドローモ・モンツァでチャレンジを開始し、23の新記録を樹立した。

スタートが遅れたため何人かのモータージャーナリストは、スケジュールの関係からモンツァを後にすることになったが、用意周到なカルロは、非常事態のために初回のトライアルを担当したカッティーニ、ポルトロニエーリ、ティエーレの3人を待機させていた。そしてチャレンジを再開させたのだった。

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1959年になるとレコードカーをピニンファリーナと共に製作する。ピニンファリーナ社の風洞実験で磨き上げられ、従来あったテールフィンやロングテールは廃された。当初747ccのビアルベーロ・エンジンだったが、後にアバルトを代表する982ccのビアルベーロ・ユニットが搭載された。

2度目のチャレンジはトラブルもなく次々と記録を樹立してゆく。まず5000kmを34時間26分27秒、平均速度145.175km/hで走破したのち、5000マイル(8000km)は55時間26分53秒(平均145.121km/h)、10,000kmは71時間26分53秒(平均140.658km/h)という時間記録を打ち立てた。一方、時間枠では48時間で6978.931km(平均145.394km/h)、72時間では10125.560km(平均140.632km/h)という新記録も樹立する。この模様はヨーロッパの主要自動車誌で大々的に紹介され、アバルトの思惑通りの展開を見せることになったのである。

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アバルトが手を加えたエンジンを搭載したフィアット・ヌォーヴァ500によるスピード・トライアルが1959年2月13~20日に行われた。シリンダー・ヘッドを半球形状に代えて圧縮比を10.5まで高めることにより26HPまでチューンアップされ、18186.440kmの距離を平均速度108.252km/hで走り切った。

速度記録挑戦でも大成功を手にしたカルロ・アバルトは、レースとともに速度記録にも一段と力を入れ、排気量351~500ccのクラスHや751~1100のクラスG用のマシンを製作し、次々と新記録を打ち立てていく。さらには1957年にフィアットからヌォーヴァ・チンクエチェント(新500)がデビューすると、アバルト・マジックを施して市販車500ccクラスに挑み記録を塗り替えてしまう。このような様々なチャレンジにより、アバルト=高性能、高品質というイメージを決定的なものとし、名声をさらに高めたのだった。

1956 FIAT ABARTH 750 RECORD CAR

全長:4590mm
全幅:1540mm
全高:1040mm
ホイールベース:2280mm
車両重量:385kg
エンジン形式:水冷直列4気筒OHV
総排気量:747cc
最高出力:47HP/6000rpm
変速機:3段マニュアル
タイヤ:5.20-12
最高速度:192km/h