1948 CISITALIA ABARTH 204A|アバルトの歴史を刻んだモデル No.053

1948 CISITALIA ABARTH 204A
チシタリア・アバルト204A

初めてアバルトのエンブレムを付けたマシン

第二次大戦後の間もない頃、カルロ・アバルトはイタリアで永住権を得て、自動車に関わるビジネスを模索していた。そのひとつが以前よりつながりのあったポルシェ設計事務所のイタリアにおける代理権の取得だった。イタリアでポルシェ社が所有する特許や技術を使用する際の窓口となる業務である。

同時期に、トリノの実業家ピエロ・ドゥジオが1946年に立ち上げた自動車メーカー、チシタリアは、新型マシンでグランプリに挑む計画を進めていた。マシン開発は、かつて圧倒的な強さを誇ったアウトウニオンのグランプリカーを手掛けたポルシェ設計事務所に委託されることになり、1947年に元ポルシェのルドルフ・フルシュカが製作指揮者として就任。イタリアでの代理権を持つカルロの元にも連絡が入った。カルロはそれまでの経歴が認められ、仲介業務に加え、レーシングマネージャーとしてチシタリア入りすることとなった。


チシタリア204のフロントビュー。「204」は日本にも現存しており、タイトル写真がその1台。

余談だがチシタリアを設立したピエロ・ドゥジオは、第二次大戦前にセリエAの名門チームであるユベントスで選手として活躍し、のちにチームオーナーを務めたキャリアを持つ。また、自らステアリングを握りレースに挑み、イタリア国内外のレースで数多くの勝利を勝ち取った腕利きのレーシングドライバーでもあった。

チシタリア204の開発

チシタリア入りを果たしたカルロはグランプリカー開発の傍ら、それまで同社の主力マシンだったチシタリア202MM(ミッレミリア)とSMM(スパイダー・ミッレミリア)をよりコンペティティブに進化させたチシタリア204の開発を手掛けた。それまでのチシタリア202はロードカーを基本とするスパイダーとベルリネッタというスタイルだったが、チシタリア204は当時開発中だったグランプリマシンの流れを汲み、フォーミュラマシンにフェンダーを付けたようなレーシーなプロポーションを持っていた。

チシタリア204は202CMMヌヴォラーリ・スパイダーをベースに、新設計の中央でXにクロスする鋼管スペースフレームを採用し、ボディパネルには軽量なアルミを採用。フロントサスペンションはトレーリングアームとトーションバースプリングを組み合わせたもので、リアはオーソドックスな半楕円リーフのリジットアクスルだった。


エンジンはフィアット1100用をベースに、2基のウェーバー36DR4SPキャブレター採用などのチューニングにより、83bhpにまで高められていた。

フロントミッドに搭載されるエンジンは202MMと同じようにフィアット1100用をベースとするが、2基のウェーバー36DR4SPキャブレターを採用すると共にチューニングが施され83bhpを発生。最高速度は170km/ hに達した。

完成したチシタリア204は、1948年5月9日にヴェルチェッリ・サーキットで行われたレースでデビューを果たした。完成間もないマシンだったためメカニカルトラブルが発生してリタイヤを喫してしまうが、1ヶ月後の6月13日にタツィオ・ヌヴォラーリの生誕地マントヴァで開催された「ジョルジオ&アルベルト・ヌヴォラーリ・カップ」では、見事優勝を飾り、完成度の高さを証明して見せた。


メーター類は走行に必要な最小限のもののみが備わる。フロアには鋼管フレームを採用した構造が見て取れる。

こうしてカルロの開発力の高さは証明されたが、一方でチシタリア社はグランプリカーの開発コストが膨れ上がり、経営危機に見舞われてしまう。さすがのピエロ・ドゥジオも万策が尽き、レース活動を諦めてチシタリアをアルゼンチンに移すことを決意する。ここでカルロは転機の時を迎えた。それまでレースで勝つことに全身全霊を傾けてきたが、チシタリアがアルゼンチン移転後に実用車を生産する方針に切り替えることを知り、自身の身の振り方を決められないでいたのだ。

ABARTH & C.の設立

混乱の中でカルロはチシタリアのレーシングドライバーで親交の深かったグイード・スカリアリーニに相談すると、幸いにも大地主である父親アルマンドの資金支援を受けることが実現し、チシタリアのレース部門を引き継ぐことになった。こうして1949年3月31日、カルロ・アバルトとアルマンド・スカリアリーニにより「ABARTH & C.」が設立された。


日本にはもう1台、204が存在する。こちらの個体はヘッドライトがラジエターグリルに内蔵されている。

カルロはチシタリアに残っていた1台のD46と204の完成車3台、ならびに製作途中の204を2台引き取り、トリノに本拠を構えた。すぐさまレーシングチーム「スクアドラ・カルロ・アバルト」を立ち上げ、伝説のドライバーであるタツィオ・ヌヴォラーリを始めとする当時のトップドライバーを擁する強力な体制を整え参戦を開始した。

アバルトに引き取られたチシタリア204は、車両名をアバルト204Aに改め、ノーズにサソリのエンブレムが取り付けられた。なお車名の最後に付く「A」はアバルトを意味していた。


アバルト204Aのリヤビュー。戦前車のデザインを受け継いでいた。

1949年4月のミッレ・ミリアで、グイード・スカリアリーニ/マリオ・マッジオ組の204Aスパイダーは1100cc以下のクラスで2位、総合5位に入賞したのを皮切りに、様々なレースやヒルクライムで勝利を手にし、アバルトの名を広く知らしめた。なかでも輝かしい記録は、1950年4月10日に行われたパレルモ-サン・ペレグリーノ・ヒルクライム。この競技で偉大なるレジェンド、タツィオ・ヌヴォラーリがその素晴らしいキャリアを締め括る感動的な勝利を収め、204Aはその栄光に貢献したのだ。

アバルトのレース活動の起源となったチシタリア改めアバルト204Aは、チシタリア時代にカルロが手掛けた最後のマシンとなったが、同時にそれは誕生したばかりのアバルトにとって、新たな幕開けを告げるマシンとなったのである。

1948 CISITALIA ABARTH 204A

全長:3900mm
全幅:1460mm
全高:1165mm
ホイールベース:2100mm
車両重量:818kg
エンジン形式:水冷直列4気筒OHV
総排気量:1089cc
最高出力:83bhp/6000rpm
変速機:4段+後進1段
タイヤ:5.00×15
最高速度:170km/h