No.1ヒストリックカー・ショーで感じたアバルティスタの情熱

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会期中に開催されたボナムス社のオークションで。『アバルト・ヘリティッジ』が発行した証明書をもつ1960年フィアット-アバルト750レコルド・モンツァ(左)。右は1978年フィアット-アバルト124ラリー。

5千台の展示車に連泊ファンも

『アウトモト・デポカ』は、ヴェネツィアと同じイタリア北部ヴェネト州のパドヴァで開催されるヒストリックカー・ショーである。
毎年10月の最終週というのがおきまりだ。東京ドームの面積の約1.9倍にあたる9万平方メートルのメッセ会場には、11のパビリオンを含むも15もの展示スペースが設けられる。

2018年10月25-28日に開催された35回も、圧倒的なスケールで来場者を驚かせた。出展者数は1600、展示・販売される自動車は5千台にのぼった。来場者も前年を上回る20万人を記録した。

近年ヒストリックカー人気の再興を受けてミラノをはじめ各都市でショーが展開されているが、パドヴァは間違いなくイタリアNo.1のヒストリックカー・ショーである。

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イタリア自動車クラブ(ASI)は、特別展としてラリーカーを特集。手前は1980年フィアット131アバルト・グループ4仕様。国内ラリーの戦力として、プライベートチームの手に渡った。

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ザガート・カー・クラブのスタンドにも、やはりアバルトは欠かせない。1958年フィアット-アバルト750ザガートとオーナーの グイド・ポルティナーリ(左)、ザガートのパオロ・ターラント(右)の両氏。

会場には、隣接するロマーニャ地方の名物薄焼きパン「ピアディーナ」を焼く香りと煙が漂う。その中をファンやバイヤーが練り歩いている。愛好するブランドのワッペンを縫い付けたブルゾンやスウェットを得意げに羽織って歩く人も少なくない。

なかには会期中の通し券を購入し、キャンピングカーに寝泊まりしながら過ごす来場者もいる。ドイツ、オーストリアからの越境組も頻繁に見かける。
片言やジャスチャー、ときにはエンジンの擬音を交えながらも会話が成立しているのは、さすがエンスージアスト同士である。

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『ボナムス』オークションの会場で。アレマーノのボディをもつ1958年フィアット-アバルト・スパイダー。新車時に米国に渡ったあと消息は一旦途絶えるが、1969年にカリフォルニアのアバルト・チューナーによって発見され修復された。

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アレマーノ・ボディのフィアット-アバルト・スパイダーには、スペアのエンジンも添えられ、57,500ユーロ(約740万円。手数料込み)でハンマープライスとなった。

さらに期待高まる『アバルト・クラシケ』

歴史的アバルト車に関するメーカーによるオフィシャル・サポートサービス『アバルト・クラシケ』は、2018年2月の本欄パリ・レトロモビル・レポートでお伝えしたとおりだ。

今回のパドヴァで、彼らはメインパビリオンにブースを構えた。

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『アバルト・クラシケ』のブースにて。メーカーブランド系が集まるパビリオンの中央にブースを展開した。

車齢20年以上のアバルト車を対象に、真正な車両であることを証明する制度『Certificate of authenticity』プロジェクトが発表されてから約半年。その後どのような経過を辿っているのだろうか。『アバルト・クラシケ』で広報を担当するジャンフランコ・ジェンティーレに聞いてみた。

「すでに約150台のアバルト車にサーティフィケイト(証明書)を発行しました」

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『アバルト・クラシケ』のブースで。マーケティング&コミュニケーションを担当するジャンフランコ・ジェンティーレ。学術畑出身という異色の人材である。

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『アバルト・クラシケ』が真正と認めたアバルト車に発行される証明書。申請に要する費用はモデルによって異なる。

参考までにサーティフィケイトを受けた1台、ザガート・ボディの1959年フィアット-アバルト750レコルト・モンツァ・ビアルベロは、会期中に開催された英国ボナムス社のオークションでスター的存在として採り上げられた。

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1960年フィアット・アバルト750レコルド・モンツァ(右)は、ザガートによる小粋なボディをもつ。エンジンは、このモデルに希少なビアルベロ(ツインカム)である。

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速度計は200km/hまで刻まれている。10年前、ピサのカロッツェリアでフルレストアが施された。

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パッセンジャー側ダッシュボードには、アバルト・クラシケの証明書取得済であることを示すプレートが。

1台あたりの認証作業には「およそ1-2カ月をかけます」とのこと。
ジェンティーレによると、サーティフィケイト制度は、今後より広い海外での展開も視野に入れているという。参考までにジェンティーレは、アバルトへのパッションとともに、イタリアの在外公館や学術機関における文化財研究員としての豊富な経験をもつ。自動車界では異色の存在だ。
彼ら精鋭スタッフたちの努力により、自動車史におけるアバルト各車の存在は、よりアキュラシー(正確性)を高めてゆくに違いない。

なお、アバルト・クラシケを含むFCAヘリティッジは、近い将来トリノのミラフィオーリに、展示スペースと歴史アーカイヴを兼ねた「ヘリティッジ・ハブ」をオープンする予定だ。こちらにも今から期待が高まる。

名デザイナーとの思い出

歴代アバルトは、スワップミートのパビリオンでも注目の的だ。
ある熟練バイヤーによれば、アバルト車は個性的なキャラクターに加えて、個体の数が少ないことから、ヨーロッパでは安定したバリューと人気を維持していると教えてくれた。

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販売コーナーにはプロ&アマチュア含め、多様なセラーが。フィアット・アバルト1000は会期2日目にもかかわらず早くも売約済のサインが掲げられ、その人気ぶりを示していた。

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屋外展示スペースにあったフィアット-アバルト595。ABARTHの文字が彫られたフロアパンが覗ける。こんなセクシーなアングルをアピールできるのもアバルトならでは。

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この1960年フィアット-アバルト750は、前述の写真と同じアレマーノ製ボディをもつが、こちらは恐らく1台だけ造られたとされるクーペ。

いっぽう、クラブスタンドが並ぶ館に1973年フィアット-アバルト124ラリーがディスプレイされていた。
スタンドの主である「レジストロ・ナツィオナーレ・フィアット124スポルト・スパイダー」のアルベルト会長にその魅力を聞くと、「タイムレスなシルエットです」と即座に答えてくれた。

カロッツェリア「ピニンファリーナ」によるそのデザインに心から惚れ込んだ彼は、ある日決心してモデナの自宅からトリノの同社に問い合わせた。「社内で実際にデザインした人の名前を確かめたかったのです」。2008年のことだった。

親切な広報担当の女性は、「それはトム・チャーダです」と教えてくれるとともに、彼の連絡先も残してくれた。

チャーダは1934年米国デトロイト生まれ。ミシガン大学卒業後20代でトリノに渡り、ピニンファリーナをはじめいくつかのカロッツェリアで、ヨーロッパ戦後自動車史に残る名作を手がけた。イタリア・カーデザイン界のビッグネームである。

「ある日、意を決して電話をかけると、なんとチャーダ氏本人が受話器をとってくれたのです。とてもフレンドリーな人でした」。
 アルベルトさんがクラブミーティングに誘うと、それが僅か一週間後の開催であったにもかかわらず、ジャーダは即座に快諾してくれた。そして実際にロベルトさんたちは愛車で集い、伝説のデザイナーを囲んで週末を過ごしたという。

惜しくもチャーダは2017年6月、天国の人となった。しかし、アルベルトさんと仲間たちは、チャーダと過ごしたその週末を今でも忘れない。

アバルトの周囲に集う人たちの語りには、いつも聞く者を引き込む情熱とドラマがある。そう実感した北イタリアのイベントだった。

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フィアット-アバルト124ラリーとともに。一番右がデザイナー、トム・チャーダとの思い出を語ってくれたロベルト会長。

Report 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
Photo  Mari OYA/Akio Lorenzo OYA