スピードに夢を馳せた時代のABARTH

自動車界において「スピード」という世界観が、現代以上に夢と憧れであった1950-60年代。ヨーロッパをはじめとする世界中の自動車メーカーが、持てるテクノロジーを発露するための場として、サーキットを舞台とするスピード記録にチャレンジしていた。
それはABARTHとて例外ではなかった。むしろABARTHは、スピード記録チャレンジの分野では、世界をリードする存在だったのだ。
ABARTHとカルロ・アバルトが、FIA(国際自動車連盟)の公式監視のもとに行われる世界スピード記録に初めて挑んだのは、1956年6月16-18日。舞台はのちにABARTHの伝説を数多く演出することになるモンツァ・サーキットだった。
この年、発売されたばかりだった世界初の量産チューンドカー“ABARTH 750デリヴァツィオーネ”の実力を世に知らしめるために開発されたレコードカーは、ABARTH技術陣による完全新設計の鋼管スペースフレームに、名門カロッツェリア、ベルトーネ(Bertone)社の製作した流線型ボディを架装。市販型ABARTH 750デリヴァツィオーネの水冷直列4気筒OHV747cc・41.5psのエンジンを44psにチューンアップして搭載していた。そしてこのマシンと、ABARTHの使い手として知られていた4人のレーシングドライバーは、24時間の平均速度で500~750ccのクラスH世界記録となる156.985km/hを達成したのだ。
翌1957年5月には、今度はカロッツェリア・ピニンファリーナ(Pininfarina)とのコラボで、FIAT ABARTH 50デリヴァツィオーネ用エンジンを搭載したクラスH車両と、ABARTHが排気量を縮小し、再チューンを行ったAlfaromeo Giulietta用直列4気筒DOHCエンジン(1059cc)を搭載したクラスG(750~1100cc)車両の2台が製作され、ともにモンツァで記録を更新。また同年7月には、新たに“ビアルベロ(DOHC)”ヘッドが与えられた747ccエンジンをピニンファリーナ製ボディに搭載したマシンを新規開発。モンツァ・サーキットにて、200マイル/500km/3時間の三部門で世界記録を更新することになる。そして、これらモンツァにおける活躍から1958年にデビューした750ccのレーシングGTには“レコルド・モンツァ(Record onza)”の愛称が与えられたのだ。これこそが、現在のABARTH純正ないしはオプションとして装着される高効率マフラー“レコード・モンツァ”の起源である。
ABARTHのスピードへの飽くなきチャレンジは、最も小さな“500”でも行われることになる。まずはピニンファリーナ製の超空力的ボディを与えられた“FIAT 500レコード”で、1958年9月27日~10月7日に亘る10日間マラソンを決行。500cc以下の国際クラスIで、23もの世界新記録を打ち立てた。
さらに1959年2月13-20日の一週間に亘り、ABARTHがチューンを手掛けた2気筒エンジンをスタンダードのFIAT 500ボディに載せた“FIAT 500 ABARTH”とともにモンツァ・サーキットに挑み、総距離18,186.440kmを走破。平均時速は108.252km/hを達成した。
特に後者のチャレンジは、当時のメディアでも大きく取り上げられた上に、記録達成後には欧州各地のモーターショーでも凱旋展示が行われたことから、大衆の熱狂的な人気を獲得。この人気ぶりは、それまでABARTHの記録チャレンジを静観していたFIAT社首脳陣の目にも留まった結果、FIATとABARTHの絆はいっそう強いものになったのである。
1960年代に入ってもABARTHのFIA世界スピード記録チャレンジは積極的に継続されたが、そのクライマックスとなったのは、1965年10月20日だろう。例によってモンツァ・サーキットを舞台に行われたSS 1/4マイル(0-400m発進加速に相当)と0-500mスピード記録チャレンジである。
この時のドライバーを担当したのは、カルロ・アバルトその人である。約1か月後には57歳の誕生日を迎えようとしていた彼は、自ら強く志願して982cc・105psのビアルベロ・エンジンを搭載するシングルシーター・マシンに搭乗。SS 1/4マイルで平均106.344km/h、0-500mで平均117.035km/hというクラスG新記録を達成。加えて翌10月21日には、2リッター・エンジンを搭載したクラスEマシンでも従来のポルシェの記録を打ち破り、世界タイトルホルダーになった。
ちなみにこの時、狭いシングルシーター・マシンのコックピットに乗るために、カルロ・アバルトは30kgものダイエットを敢行。カゴに積み上げたリンゴとともに悠然と映る有名な写真こそ、カルロのチャレンジングスピリットを語るものだったのだ。
自動車の世界における“IMPOSSIBLE”に、常にチャレンジしてきたABARTH。開祖カルロ・アバルト以来の果敢な企業姿勢は、2007年に復活を果たした現在でも失われることはない。持ち前のスピードとドライビング・ファンに加えて、環境への対策にも積極的に取り組むスタンスは、まさしくその表れであろう。
現代ABARTHの「世界で最も小さなリアルスポーツカー」の源流は、このチャレンジングスピリットにあったのである。


1956年6月16
18日、初めてモンツァの記録を達成したベルトーネ製レコードカーとドライバー陣。右端のカルロ・アバルト本人のほか、当時のそうそうたるメンバーが見える。


現在のアバルト本部“オフィッチーネ・ミラフィオーリ”に展示される2台のレコードカー。右が1956年のベルトーネ製マシン、左が1957年のピニンファリーナ製マシンである。

1956年のベルトーネ製クラスH車両のコックピット。戦闘機のようなキャノピーを持つ狭いスペースで、当時の“アバルト使い”たちは勇敢なチャレンジに立ち向かっていたのだ。

モンツァでのスピード記録と、それを記念したザガート製レーシングGT“レコルド・モンツァ”にオマージュを捧げた現代の純正エキゾーストシステム“レコード・モンツァ”。

1958年9月27日から10月7日に亘る10日間マラソンを決行し、500cc以下の国際クラスIで23もの世界新記録を打ち立てた、ピニンファリーナ製マシン“FIAT 500レコード”。

量産FIAT 500のボディをそのまま流用したFIAT 500 ABARTH。一週間記録に挑んだABARTH陣営は、総距離18,186.440kmを走破。平均時速は108.252km/hを達成した。

一週間記録を更新した500 ABARTHは、その後ヨーロッパ各地のショーで大人気を博したことから、時のフィアット首脳陣はABARTHとの関係をいっそう深める決定を下した。

1965年10月、カルロ・アバルト自身の操縦でSS 1/4マイル平均106.344km/h、0-500m平均117.035km/hという、クラスG新記録を達成したシングルシーター・レコードカー。

カルロが単座レコードカーの狭いコックピットに乗り込むために行った、30kgの“リンゴダイエット”の記念写真。同時代の最新モデルたちに加えて、レコードカーの姿も見える。