アバルト伝説を築いた男たち①【タツィオ・ヌヴォラーリ前篇】

カルロ・アバルトが自身の会社を興す際に大きな影響を与えた人物は複数が存在しましたが、中でも特筆すべきはタツィオ・ヌヴォラーリである。
母国イタリアでは出身地から「天駆けるマントヴァ人」と呼ばれ、ライバルとなったドイツでは「赤い悪魔」と呼ばれた彼は、第二次世界大戦前には世界最高のレーシングドライバーと称されていました。そして戦後、カルロ・アバルトはレーシングチーム「スクアドラ・カルロ・アバルト」を発足させる時にも、精神的な支柱として彼をエースに迎えました。
なぜヌヴォラーリがイタリアの国民的英雄となったかをご説明するために、まずはアバルトと出会う以前、第二次大戦前の彼の活躍についてお話しさせていただくことにします。
1892年11月16日、ロンヴァルディア州の古都マントヴァ近郊の小さな町、カステルダリオの豪農の長男として生まれたヌヴォラーリは、1920年頃から2輪車でモータースポーツの世界に飛び込みました。2輪車レーサーとしての経歴があるのは、奇しくも青年期のカール・アバルトと同じでした。1921年には4輪車でのレース活動も開始し、しばらくは両立していました。
彼は335戦の2輪車レースに出場、その内の124戦が国際格式のグランプリで、さらにその内105回もの優勝を遂げましたが、その後4輪レースに専念するために2輪車は引退。4輪レーサーとしての快進撃を開始することになるのです。
そしてヌヴォラーリは、1928年のリビア・トリポリGPにて、ブガッティT35Bを駆ってグランプリ初優勝を獲得して以来、第二次大戦前最後のグランプリとなった1939年のユーゴスラヴィアGPにてアウト・ウニオンDタイプとともに勝利するまでに、ヌヴォラーリは国際格式のグランプリ級レースだけでも23回もの勝利を挙げるに至りました。
その走りは勇猛果敢で、いかなる状況においても全力疾走。ドライビングテクニックは「神懸り的」あるいは「悪魔的」とも評され、性能の劣るマシンや悪路など困難な条件であるほど冴え渡ったといいます。身長162cmという小柄な身体で重いステアリングを操るため、マシンの4輪を滑らせカウンターステアを当てながら走る「ドリフト走法」も彼が編み出したものとされています。
そんなヌヴォラーリゆえに、武勇伝は事欠きません。例えば1930年のミッレ・ミリアでは、アルファ・ロメオ6C1750SSに搭乗。ゴールを間近に控えた深夜の街道で同じマシンに乗る宿命のライバル、アキッレ・ヴァルツィにヘッドライトを消したまま背後から忍び寄り、そのまま優勝を果たしました。
また1935年のニュルブルクリンク・ドイツGPでは、既に猛威を振るっていたメルセデス・ベンツ“シルヴァーアロー”に対し、旧態化の目立っていたアルファ・ロメオP3とともに奮闘し、ファイナルラップに入った段階で35秒もの大差をつけられていたナチス政権お気に入りのドライバー、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュに対し、鬼神のごときスパートでゴール直前に抜き去り、ここでも見事な優勝を獲得したのでした。
かくしてイタリアの国民的英雄となったヌヴォラーリ。次回はいよいよ、カルロと名を変えたアバルトとともに最後の闘いを繰り広げた第二次大戦後のお話しに移りますので、是非お楽しみに。


アルファ・ロメオに乗るタツィオ・ヌヴォラーリ

本文中でもご紹介したように、ヌヴォラーリは2輪のレースでも輝かしい成績を残しました。

スクーデリア・フェラーリのドライバーとして1934年のモンツァGPを疾走するヌヴォラーリ。